尾道・浄土寺



山門から見下ろせば急な石段, JR山陽線をくぐったその向こうには尾道水道の水面が陽光に輝ている。尾道市の東部に位置する浄土寺は、尾道三山の東端にある浄土寺山(瑠璃山)を背に建っている。(尾道三山は、千光寺山-大宝山、西国寺山-愛宕山、浄土寺山-瑠璃山の三山を指す)
 
 中国地方有数の古刹で、開基は飛鳥時代まで遡る推古天皇24年(616)聖徳太子によると伝えられている。その後、時代は移り、鎌倉時代末期には堂塔を維持ることもできないほど寺勢衰退していが、奈良西大寺の定証上人により中興された。正中2年(1325)諸堂宇悉く炎上の悲運に見舞われるも、翌嘉暦元年(1326)尾道の古老道蓮・道性夫妻によって金堂(本堂)、山門、多宝塔、阿弥陀堂、など相次いで再建され、現在までその威容を保っている。

 江戸時代には、京都の皇室の菩提寺である御寺泉涌寺の末寺となり、大本山として正式名称を轉法輪山大乗院浄土寺と称し、本尊は十一面観音、宗派は真言宗泉涌寺派で、千四百年の法灯を継承している。
(参考:浄土寺発行冊子 『国宝の寺 尾道 浄土寺』を要約)


浄土寺の代表的な建造物
金堂(国宝)



鎌倉末期に炎上せるも、嘉暦2年(1327)尾道の古老道蓮・道性の発願で、大工藤原国友・国貞により再建。

和様を基調とし、桟唐戸など禅宗様を取り入れたた折衷様式である。
桁行5間、梁間5間、1間向拝付き、入母屋造、本瓦葺。

本堂左右に掛かる提灯の「二つ引両」の寺紋は足利氏の紋である。

堂内写真不可、前面2間を外陣、その奥3間四方に内陣、内陣両側を脇陣となっている。
内陣・須弥壇の春日厨子内に本尊の十一面観音(秘仏)が安置されている。

金堂の向拝




1間の向拝で斗供(組物)は
肘木の両端下部が円弧になっている(禅宗様)
阿弥陀堂(重文)) 本尊阿弥陀如来

金堂の東側に建立されている。金堂、多宝塔と共に正中2年(1325)に炎上、貞和元年(1345)に再建された。

桁行5間、梁間4間、寄棟造、本瓦葺。

堂内写真不可。内陣の須弥壇に阿弥陀三尊像が祀られている。

案内していただいた係員(僧侶)によれば、2重折り上小組格天井、支輪下の壁に入っている卍崩の模様(組子)は、見る角度によって微妙に色が変化する非常に珍しい壁の由。

正面5間は蔀戸(しとみど)としている(上反分だけ吊って開放できる半蔀戸方式)。側面は板唐戸と細かく横桟を入れた板戸(舞良戸)(まいらど)となっている。 
軒の垂木は平行垂木で、上段の飛檐垂木(ひえんたるき)と下段の地垂木の2軒となっている、尚、地垂木は繁垂木となっている
穏やかな屋根の反りなど優美な和様建築である。
多宝塔(国宝)

金堂と共に正中2年(1325)炎上、嘉暦3年(1328)再建。内部写真不可なるも、資料によれば、下重の四天柱の後方2本を後退させて須弥壇前を広くしている、須弥壇には、大日如来坐像を主尊に釈迦如来像(左脇侍)、薬師如来坐像(右脇侍)で固めている。

方3間、本瓦葺、総高19.8mの和様建築。.

鎌倉時代の代表的な多宝塔とされている。

多宝塔の垂木と組物

多宝塔上層、下層ともに、二軒で、平行垂木で繁垂木(しげたるき)の和様である。

斗供は四手先(4段に斗供を重ねる)


 下層の和様斗供は禅宗様の木鼻になっている。(矢印)  
多宝塔下層の蟇股

法輪の左右に宝相華唐草を配した、見事な彩色透かし彫りの本蟇股である。

(写真は多宝塔正面下層に、三つ並んでいる中央の蟇股)
唐門(重文)

桁行1間、梁間1間、本瓦葺。

向唐門。

正徳2年(1712)方丈の正面に建立。

一時期金堂と阿弥陀堂の間に移築されたが、再び現在位置(方丈の正面)戻されたという。

(右の写真は2003年5月訪問時撮影のもの)
山門(重文)
正中2年(1325)他の諸堂と共に炎上したが、その後、間もなく建立されたようである。、

四脚門、切妻造、本瓦葺。両袖付。

妻側の板蟇股に足利氏の家紋「二つ引両」が刻まれている。

浄土寺と足利尊氏の関係
足利尊氏が元弘の乱(1331~1333)で九州に落ち延びる際、建武3年(1336)浄土寺で戦局挽回を祈願して幾つかの地頭職を寄進した。
その後、九州での戦いに勝利して、再び浄土寺に参籠、本堂で、観音経を読経し、弟の直義らと観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願した。更に備後国の利生塔を浄土寺境内(元・尾道私立筒湯小学校校庭)に建立した。これらの縁で浄土寺では今でも足利氏の家紋「二つ引両」を寺紋としているとのこと。
(参考:Wikipedia)   (左の写真:2003年5月撮影のもの)

浄土寺の代表的な石造物
納経塔、鎌倉時代(重文)

弘安元年(1278)、尾道の豪商・光阿吉近が父光阿弥陀仏のために建てた供養塔。光阿弥陀仏はは、浄土寺が再建される以前に伽藍の修造に尽力した人物。

塔身に胎蔵界私四仏の種字を刻み、法華経・浄土三部経・梵網経などを奉納したもの。

、基礎に格挟間を刻み、塔身の上に高欄付、笠の上に露盤・請花・宝珠を載せている

大きな基壇で、全体的に重厚感がある鎌倉時代の石造宝塔の秀品とされている。

高さ2.7m 

境内の東端に設置
宝篋印塔 南北朝時代(重文)

沙弥(若い未熟な僧侶のこと)行円など4名の逆修塔で、光孝の追善の為に建てられた。

基礎と塔身の間に方形の受台を入れた地方色を残す。

格狭間に貞和四年の銘あり。

高さ3.2m

境内の東端に設置

(現地説明版参照)
宝篋印塔 南北朝時代(重文) (写真向かって左)

足利尊氏の墓と伝えられている。

基礎と基壇の間に返花座を設け基礎に大きい格狭間を刻む。
相輪を含め、塔全体のバランスが良く、中国地区宝篋印塔の代表作と云われている。

高さ1.9m


五輪塔 南北朝時代(未指定) (写真向かって右)

足利尊氏の弟直義の供養塔と伝えられている。尊氏の塔と同時期のものと考えられる。(現地説明版)

境内の南東に設置

浄土寺の庭園と方丈
庭園 江戸後期 (名勝)

方丈と客殿に東南を囲われて境内の西北に作庭された築山泉水庭である。

境内の小高くなった場所を使って、築山を造り、一帯に多数の石を配している。

築山背後の茶室・露滴庵(重文)(写真奥の茅葺)には、飛び石がつ行くことが出来る。

浄土寺に伝わる古絵図により、文化3年(1806)に長谷川千柳によって作庭されたことが判るとのことである。
方丈 江戸中期(重文)

元禄3年(1690)尾道の豪商橋本家が施主となって再建された。

正面と両側面が吹放しの広縁になっている、内部は5部屋で構成されている。

天井は折り上げ格天井で格式が高いことを表している。

桁行16.7m、梁間13.1m、本瓦葺。
方丈屋根(客殿からの眺め)

一重、寄棟造、本瓦錣葺(ほんかわらしころぶき)

錣葺とは、大棟から軒まで一つの面でなく、一段下に区切りをつけてその下から軒まで葺く形式の屋根。
(「錣」とは、兜の鉢の後部や左右にたらし頸部を保護するもの)

錣葺の代表的な使用例として、大阪・四天王寺・金堂、講堂 法隆寺・玉虫厨子などが有名。

仏像関係:撮影禁止のため写真はありませんが、安置されている主な仏像は、次の通りです。
 
・十一面観音菩薩立像:金堂本尊 秘仏で公開されていない(重文)
・阿弥陀如来坐像:阿弥陀堂本尊(県重文)見学可能
・聖徳太子立像(孝養像・、聖徳太子立像(摂政像)・聖徳太子立像(南無太子像)の3躯(重文)、宝物館で閲覧可能。、
・文殊菩薩騎獅像(県重文)、宝物館にて閲覧可能。
・金剛界大日如来坐像(県重文)宝物館にて閲覧可能。
・胎蔵界大日如来坐像(県重文)宝物館にて閲覧可能。。
(宝物館の閲覧は、堂内の見学とは別に本堂受付にて申し込みが必要)

他にも多数の仏像(尾道市重文)絹本着色仏涅槃図(重文)など貴重な文化財多数保存されている。




映画の町でもある尾道は市中の各所を舞台にした場面も多く撮られている、浄土寺はその代表的な舞台である。

浄土寺と松竹映画「東京物語」(小津安二郎監督)

尾道に暮らす老夫婦が東京に住む息子夫婦を尋ねた後、尾道に帰って間もなく、妻(東山千恵子)が亡くなった、燈籠の傍で尾道水道を眺めながら佇む夫(笠智衆)に次男の嫁(原節子)がきて話しかける場面。(映画の終盤近くのシーン))

左の写真は尾道市海岸通りH食事処付近、防波堤のタイル写真を撮ったもの)
山門を入って右方向へ、経堂と鐘堂の間に設置されている石灯籠。
この石灯籠が上記シーンの傍景に使われた灯篭であり、現在場所は若干移動しているが、そのままの姿で残っている。

夫(笠智衆)が眺めたであろう尾道水道も変わっていない。
    
                   
        浄土寺山門前の道路より撮影
「東京物語」のオリジナル版(1953年公開)は火災で焼失、2003年、2011年の2回デジタルリマスターされ、NHK・BSプレミアムで2011年4月に放送された。(主演:笠智衆)、原節子)

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