四天王寺



日本で最も古くて最も新しい寺院、四天王寺である。 飛鳥寺(法興寺・本元興寺)とともに我が国における仏教寺院としては最古のもの、また、先の太平洋戦争で伽藍の大部分は消失し、現在の伽藍は戦後の再建である。なお、「天王寺」は、四天王寺の略称であり、区名にもなっている。

 用明天皇2年(587)崇仏派(曽我氏)と排仏派(物部氏)の争いで、太子は曽我氏とともに物部守屋らと戦った際、厩戸皇子(聖徳太子)は戦況を見て、白膠木(ぬるで)(ウルシ科ヌルデ属の落葉高木)四天王像を彫り戦勝を祈願したという。

戦いは崇仏派(曽我氏)の勝利に
おわり、推古天皇元年(593)、太子は難波の荒陵(あらはか)に日本最初の官寺を建立して、四天王を祀ったのが四天王寺の始まりとされている。

                         中央伽藍(金堂、五重塔) 


















四天王寺伽藍は、中門(仁王門)、五重塔、金堂講堂の順で南から北へ一直線上に建てられており、一般に四天王寺式伽藍配置よばれ、日本で最も古い様式とされている。(左上の写真は回廊の北東隅から撮ったもので金堂と五重塔の順が逆になっている)

当寺は創建以来、度重なる災厄に遭い、多くの建物や寺宝が失われた。近世以来では、石山合戦の一環である天王寺の戦い、大阪冬の陣、昭和9年(1934)の室戸台風で被災し、ついには第2次世界大戦(大阪空襲)の戦火で殆んどの伽藍が消失した。しかし、その都度不死鳥のごとく立ち上がり、現在に至っている。

現在の五重塔、金堂、講堂、などの主要伽藍は、昭和38年(1963)に完成したものである。その殆んどが鉄筋コンクリ-ト造であるが、創建時の飛鳥建築様を可能な限り復元したとされている。
五重塔 昭和34年(1959)竣工、塔高39.2m、鉄筋コンクリ-ト造、本瓦葺、八代目。聖徳太子創建時、六道利救の悲願をこめて塔の礎石心柱に仏舎利と自らの髻髪をおさめたので「六道利救の塔」と呼ばれる。

金堂 昭和35年(1960)竣工、入母屋造、二重屋根、錣葺、鴟尾を乗せる。鉄筋コンクリ-ト造。本尊・救世観音菩薩。
講堂 昭和38年(1963)の再建、単層入母屋造、本瓦錣葺、鉄筋コンクリ-ト造。堂内は「冬堂」(東側)と「夏堂」(西側)から成り、それぞれ十一面観音菩薩立像、阿弥陀如来座像が本尊として祀られている。
回廊 中門と講堂を結んで左右に回廊がある。
回廊 仁王門付近からの眺め、東重門、西重門がそれぞれ付いている。
六時堂 講堂の背後にある。文化八年(1811)椎寺(境内北西に建っていたらしい)の薬師堂を移築したもの。木造入母屋造、本瓦葺。重要文化財、本尊・薬師如来坐像。

石舞台(六時堂の手前) 厳島神社の平舞台、住吉大社の石舞台とともに「日本三舞台」の一つに数えられる。国重文。
毎年4月22日の聖霊会には雅楽が披露される。
石鳥居 境内の西側、西大門の外側に建つ明神形鳥居。以前は木造であったが、永仁2年(1294)忍性が勅を奉じて石造に改められた。掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」
(「釈迦如来法輪を転じる処極楽の東門の中心にあたる」という意味とのこと)と鋳出しされている。重要文化財。神仏習合時代の名残。
この他にも、聖霊院(太子殿)、奥殿、経堂、五智光院、西、東、南の大門など多くの重要な伽藍がる。また、建物以外の文化財も数多く残っており、特に四天王寺を代表する宝物「扇面法華経冊子」(国宝)は有名である(撮影出来ず)。仏像関係の宝物の一部は、当ホ-ムペ-ジのContents「新・仏像紀行」lに宝物館資料を、四天王寺の許可を得て転載いたしました。




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