御寺・泉涌寺

東山36峰南端の1峰である月輪山の懐に抱かれるように境内が広がっている。ここ泉涌寺は山号を東山と称する真言宗泉涌寺派の総本山である。また、四条天皇崩御際の葬儀は当山で行われ、山陵が当寺に造営された。その後、桃山時代~江戸時代に至る諸天皇の葬儀が執り行われ、皇室ゆかりの寺で御寺(みてら)と別称される所以である。

開山の時期、事情などは明らかではないが、冊子『御寺・泉涌寺』(泉涌寺発行) によれば、建保6年(1218)月輪大師・俊芿(しゅんじょう)(鎌倉初期律宗の僧、泉涌寺開山、勅謚は月輪大師)が宋の様式を取り入れた大伽藍を建立した。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより寺名を泉涌寺とした、この清泉は今でも枯れることなくわき続けているとのこと。
大門(重文)
泉涌寺には二つの大きな門があり一つは総門で、今一つは
大門である。
総門を入ると参道の両側には塔頭寺院立ち並んでいる、その一番奥まった処に建っているのが
大門である。

様式は、切妻造、四脚門、本瓦葺で慶長年間(1596~1614)に御所から移築したもので桃山時代の豪華な雰囲気がある。袖壁の五本線に格の高さが表れている。

山号の「東山」と書かれた張即
(中国・南宋(12C~13C)の書家、日本には、鎌倉時代末期に筆跡が伝わったされている)の筆と伝わる扁額が掲げられている。

参道
大門をくぐると参道の広い下り坂を降り切ったところに月輪山の麓に抱かれた境内が広がり、正面に重厚感のある仏殿が建っている。このように目線の下方に広がる伽藍はちょっと珍しい景色。

当初の伽藍は応仁の乱で大部分が焼失し、現在の諸建築物はそれ以降の建立である。
仏殿(重文)
寛文8年(1668)の再建、単層裳階付、入母屋造、本瓦葺き、桁行5間、梁間5間。
軒下の組物は禅宗様三手先となっている。

内陣に釈迦如来坐像
(現世)阿弥陀如来坐像(過去)弥勒如来坐像(未来)三世仏が安置されている。

内部は天井高く、鏡天井は幡龍図が描かれ、豪壮感溢れた唐様建築の代表的な建物である。
仏殿軒下の組物
禅宗様の三手先組物、飛檐(ひえん)垂木と地垂木の切面の白が軒下暗部に浮き出し、そのコントラストが美しい。
舎利殿
釈迦の仏牙舎利(遺骨)を収める霊殿。冊子『御寺・泉涌寺』によれば、慶長年間(1596~1615)に京都御所の建物を移築し、上層部を付け足して重層に変えたとのことたとのこと。

重層、桁行7間、梁間6間、入母屋造、本瓦葺き。
本坊山門
本坊(寺務所)の入口を入り、御座所、庭園が拝観できる。
御座所庭園
泉涌寺で最も美しい紅葉が見られると云われている。

池の傍らに設置された雪見灯籠は仙洞御所から移されたものとされていて、一般に泉涌寺灯篭と呼ばれているとの由。
御座所前庭
池とその背後に築かれた低い築山にモミジ、松などが配されている池泉式庭園である。
作庭時期は、明治17年(1884)の由。


紅葉の時期、京都は何処に行っても人、人、人でゆっくり、落ち着いて、その美しさを愛でることが出来ないが、此処は御座所の縁に座り拝観することが出来る。
勅使門
天皇や皇族の勅使が寺を訪れた時に開けられる門。
四脚門で軒丸瓦全て菊のご紋で飾られ、蟇股などには牡丹の彫刻が施され、破風には雲文の懸魚が付けられ風格のある門である。。

霊明殿
明治15年(1882)10月炎上の後、同17年(1884)明治天皇により再建された尊牌殿である。

桁行7間、入母屋造、檜皮葺

泉涌水屋形
此処には今も泉源が尽きることなく湧き出ており、泉涌寺の寺名の起原になっている。覆いの屋形は寛文期のもの。

屋形の下から前方に水路が造られており、清泉があることが窺われる。
月輪陵拝所
広大な前庭は清浄で、静まっている。
仁治3年(1242)四条天皇(87代)が崩御され、此処に山陵が営まれて以来、後の後水尾天皇(108代)から仁考天皇120代)までの歴代天皇、皇后の陵、灰塚、墓が営まれている。(参考:冊子『泉涌寺)』
月輪陵が宮内庁の管理であることを示す立札。
清少納言歌碑
晩年、清少納言が隠棲したと思われるこの地に、昭和49年(1974)当時の平安博物館(後の文化博物館)角田館長の発案で建てられた歌碑とのこと。

〝夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
           よに逢坂の せきはゆるさじ〟

と刻まれているようです。(百人一首 62番)

楊貴妃観音坐像のこと
泉涌寺の大門を入りすぐ左手に楊貴妃観音坐像が安置されている楊貴妃観音堂と心照殿(宝物館)がある。楊貴妃観音坐像(重文)は撮影禁止のため写真はありませんが、冊子『御寺・泉涌寺』によれば、この像は寛喜2年(1230)泉涌寺僧・湛海によって宋から将来された像の由。尚、この像は玄宗皇帝(685~762)が亡き楊貴妃を偲びその冥福を祈って造像したとの伝承がある。像の制作時代は中国・南宋時代(1127~1279)とされており、伝承の玄宗皇帝の時代とは時代が大きく異なる。

泉涌寺のポストカードによる像容は、色彩鮮やかな宝相華唐草・透かし彫りの宝冠を付け、天冠台から瓔珞を両肩辺りまで提げ、垂髪を両肩まで垂らしている。若干面長で、眼尻を上げている(日本の藤原時代後期~鎌倉初期に
似ている)。また、胸飾、瓔珞を付け、衣文は大ぶりであり、手に宝相華を持つ。像高は略100㎝強か?。
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