慈光寺・千手観音
(大塚の観音様)
観音堂(慈光寺)と観音堂の場所は住所が異なり離れていまます
この観音堂(広島市安佐南区沼田町大塚大字観音甲)の辺りは古代山陽道が通っており、「大塚」という地名は古くから歴史の舞台に登場していた地域である。時の岸城(別名 西カ城、岸古城)城主大塚四郎兵衛吉国は護身仏である観音像を深く心に感じ、建てた堂が慈光寺であると伝えられている参考:慈光寺の資料
正面の石段を上がり、接近して立っている観音堂に安置されている。
正しくは「千手千眼観自在菩薩」という。千の手と千の眼(千手の掌に眼が一つずつある)を持つ観音菩薩と云う意味であるが、一般的には、胸前の合掌した手を除き左右に20本の手を持つ姿で表されている。(奈良・唐招提寺、大阪・葛井寺の千手観音のように実際に千本の手を持つ像もある)一本の手が25の俗世間に住むすべての生き物を救うという考えに基づいている即ち25×40本=1000本ということである。
この千手観音立像も胸前で合掌する2本の手を除き、左右合わせて40本の大脇手を持つ、40本のうち2本は中央で組合わせ宝鉢(欠失)を持つ。また、大脇手の間に多数の小脇手を表している。脇手も種々の持物を持つが、本像は表していない。(市指定重文)
本像の概要:一木造、像高185㎝、(台座高不含)、きびしい表情、強い肩の張りなどは、一見、弘仁・貞観時代の作を思わせるが、この時代の特徴とされる翻波式衣文、渦文、茶杓文などの衣文は表されていない。
制作年代は藤原時代初期か。千手観音は、十一面観音と同様に頭上に11面(正面の観音化仏を除き、頂上の仏面は含む)の菩薩面を戴く。
本像も頭上に11の菩薩面を戴いていたと思われるが、正面から見る限りでは頂上の仏面と2面の菩薩面のみで、他は欠失している。
広島市域では弘仁・貞観時代~藤原時代の作は少なく、貴重な文化財である。
右脇手の様子、手首から先が欠失しているものもある。 左脇手の様子、大脇手と大脇手の間に多数の小脇手が付けられている。全ての脇手(胸前の合掌手を除く)が実際に千本あるか否かは不明なるも正面から拝観した限りではかなりの多数である。この様な作例は、筆者の知る限り奈良・唐招提寺、大阪・葛井寺の千手観音以外ではあまり見られない。
いずれにしても、広島県下ではかなり珍しい作例である。
観音堂に掲げられた扁額
「大悲閣」 大悲とは、辞書によれば衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心とある。
また、観世音菩薩の別名ともある。
140605
仏像の撮影、掲載は慈光寺さんの了承を得ています。尚、千手観音の拝観は事前了解が必要です。
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