唐招提寺
4月の下旬、若葉をわたる風の香も香しい新緑の唐招提寺を訪れた。 10年の歳月をかけた平成の大修理が成った金堂はその甍(いらか)を陽の光に燦と輝かせていた。
唐招提寺の在るところは五条町である。 今でこそ奈良市の郊外「西の京」であるが、平城京の右京五条二坊にあたり、往時は平城京の中心地区であった。
条坊の路の名残と思われるさほど広くない道路に面して建つ南大門には、孝謙天皇の宸筆と伝えられる「唐招提寺」の4文字を刻んだ勅額(レプリカ)掲げられており、門を一歩境内に入ると行く手を阻むように、巨大な甍の金堂が建っている。(勅額の実物は新宝蔵で見ることが出来る)
唐招提寺(奈良市五条町)は鑑真が建立した律宗の総本山である。創建は天平宝字3年(759)右京五条二坊にあった新田部親王(にいたべしんのう天武天皇の第7皇子)の旧宅を朝廷から譲り受けて寺としたもの。(Wikipedia参考)
金堂(国宝)・・・天平時代に金堂として建てられた現存する唯一の建物と云われている。
南大門から眺める金堂は両側の樹の枝が張り出して金堂全体の姿は多少見辛い。
参道に敷き詰められた砂利を踏み近づくと、大屋根を支える8本のエンタシス状の柱列と比較的明るい雰囲気の堂内を間近に拝観することができる。
大棟を飾る両側の鴟尾も長年の風雪に耐えていたが、傷み激しくこのたび新しく製作された平成の甍と共に1000年の未来に向って歴史を刻み始めている。(天平の鴟尾は新宝蔵で見ることができる)
金堂は寄棟造、本瓦葺き、大棟の左右には鴟尾を飾る。桁行7間、梁間4間で正面が吹き放しと成っており、容易に内陣が拝観できる。
内陣には天平時代仏像彫刻を代表する巨大で、量感豊かな本尊・毘盧遮那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像が安置されており、圧倒的な迫力で迫ってくる。尚、内陣には梵天立像、帝釈天立像と四天王立像が共に安置されている。(堂内9躯の尊像はいずれも国宝、堂内撮影禁止で写真はありません)
・毘盧遮那仏坐像(国宝)…像高約3m、天平時代の作、脱活乾漆造、量感豊かな堂々たる体躯で、納衣は通肩に着け、印相は右手に与願印(親指と中指を曲げて輪を作っている特殊なもの)、左手に施無畏印を結んでいる。切れ長の目尻に、呼吸をしているかのような鼻、肉付きの良い唇、豊かな耳朶など写実的な表現である。 小さな化仏がぎっしり付けられた光背(千仏光背)を背にして蓮華座に結跏趺坐している。 毘盧遮那仏は作例少なく、日本では3躯しかないとされておりその内の1躯である。(他の2躯は東大寺の大仏と九州・筑紫の戒壇院の毘盧遮那仏である)
・千手観音立像(国宝)…像高5.35mもある巨大な像です。天平時代の作、木心乾漆造、文字通り千本の手があります(実際には953本ですが、製作当初は1000本であった。実際に千本の手を表した像は、大阪、藤井寺市・葛井寺の像と本像の2躯と云われている)
額に第3の眼を表し、顎の張った顔で、頭上の正面に阿弥陀の化仏と十一面の小面を付けている。 中央の合掌する1手と禅定印の2手(鉢を持つ)以外の大脇手は三叉戟、化仏、宝珠、宮殿、水差し、羂索など様々な持物を持って台座に直立したいる。
・薬師如来立像(国宝)…像高約3.5m、弘仁・貞観時代、木心乾漆造、如来像の決まりごとである白毫が無い。何故か古い時代の如来像には白毫のないものが往々にして見られる(薬師寺・薬師如来坐像、新薬師寺・薬師如来坐像、東京深大寺・釈迦如来倚像、など) 腰から腿に流れるY字型の衣文は弘仁・貞観時代の特徴である。
又、背にする光背は身光部が像に対しアンバランスに大きくちょっと変わった光背である。
・梵天立像・帝釈天立像(両像とも国宝)…像高両共2m弱、弘仁・貞観時代、木造。いずれも衣の下に鎧を着けている。 梵天立像(向って右の像)は衣の両袖の一部に渦文と腰から腿にかけてY字型衣文を刻んでいる(弘仁・貞観時代の特徴) 又、裾が台座の上面に撓むほど長い裳を着けている。両像共広い肩幅、厚い胸、小鼻大きく、鋭い口元で重厚な顔つきである。受座・反花・框座のみで構成された簡単な台座直立している。
・四天王立像(いずれも国宝)…4躯いずれも像高2m弱、弘仁・貞観時代、4躯共一木造。須弥壇の向って右手前に持国天、左手前に増長天、向って左奥に広目天、右奥に多聞天の順に安置されている。4躯ともに甲を着けるも、頭部は持国天、広目天の2躯が冑を付け、増長天、多聞天の2躯は髻を結い上げている。
4躯とも甲の下に着けた衣の大袖の先を結んでいる。いずれも四天王像としては動きが押さえ気味の像である。
堂内は思ったよりも明るく各尊像とも比較的詳細に拝観することが出来た。
金堂の後ろ(北側)にある講堂(写真左)は、鑑真和上が創立に際し平城宮の「東朝集殿」を下賜され移築した建物で、平城宮の片鱗を知ることができる唯一の遺構である。堂内には本尊・弥勒如来坐像(国重文・鎌倉時代)及び持国天・増長天(2躯とも重文)が安置されている。
金堂と講堂の間の東側には境内唯一の2階建て建物である鼓楼(写真左)(舎利殿)は鑑真和上が仏舎利を奉安した由緒を持つ鎌倉建築である。(唐招提寺パンフ参考)
舎利殿の東にある長大な建物(鎌倉時代の建物)は南半分が礼堂(解脱上人釈迦念仏会の道場)とし、北半分が東室
の遺構である。(唐招提寺パンフ参考)
僧房は当寺が全寮制の学問寺であったことの名残ある。
東室と礼堂のさらに東に二つ並んで建つ校倉造がある。南側が経蔵(国宝)(写真向って右)、北側が宝蔵(国宝)(写真向って左)である。ともに天平時代の校倉で、特に経蔵は唐招提寺創建以前、新田部親王邸があったころの遺構と云われており、校倉造では「正倉院」(天平勝宝8年・756)より古く現存最古のもの。 桁行3間、梁間3間の寄棟造、本瓦葺きである。
宝蔵の北側の石畳道を東に進むと突き当たりに新宝蔵(鉄筋コンクリ−トの収蔵庫、1970年完成)がある。中には天平時代から弘仁・貞観時代までの多数の仏像が安置保管されている。
保存されている宝物、仏像は、
・金堂の鴟尾(国宝)2躯(改修前の大棟を飾っていたもの)・唐招提寺勅額(孝謙天皇宸筆)・如来形立像(唐招提寺のトルソ−)・薬師如来立像・衆宝王菩薩立像・帝釈天立像・吉祥天立像・木心乾漆仏頭・木心乾漆菩薩頭他多数の尊像(いずれも重文)が展観されている。
新宝蔵を出て、新緑の木々に囲まれた小路を行くと境内北東に鑑真和上御廟の入り口に出会う。趣のある土塀で囲まれた静寂な雰囲気の世界です。門を入り御廟へ続く細い路は両脇を緑の絨毯を敷き詰めたようで、木々の間を縫って射す光に映えて美しく、癒しの路です。(御廟の宝篋印塔は鎌倉時代のものの由)
廟の前の花生けは毎日取り替えられているらしく活き活きとしておりました。
献花台の右側に中華人民共和国の趙紫陽元首相手植えの(※)瓊花(けいか)という珍しい木がある。(唐招提寺、皇居と鑑真和上が上陸した佐賀県の3ヶ所しかないらしい?)
このほかの主たる伽藍には、鑑真和上の肖像彫刻(国宝)を安置する御影堂(重文)、戒壇、鐘楼、本願殿(旧開山堂)などがある。
以上
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