篁山竹林寺

篁山(標高535)の山頂に位置する。竹林寺は真言宗御室派の寺院で、開基、開山は詳らかでないが、縁起によれば天平2年(730)行基による開山とされている。行基は山上の桜の大樹で千手観音を刻み、本尊とした。そして一宇の堂を建て桜山花王寺と名付けたことが始まりとされている、後に現在の篁山・竹林寺と改められた。
天文14年(1545)竹林寺の末寺である乾蔵坊の僧、或は平賀氏当主で僧籍に入った平賀興貞(1948~1552)
(天文9年、崎頭城の戦いで敗れた興貞は篁山に竹林寺を再建し、出家したによって再建されたが、慶長5年(1600)福島正則が安芸国領主となり、諸宗寺院法度で竹林寺も寺領をとりあげられ、現在の姿となる。(参考:Wikipedia)

参道を登り切ったところにある仁王門(上掲写真)をくぐると、大きな池(八千代池)に架かっている屋根付きの橋(八千代橋)がある、この橋を渡ると、十王堂、本堂、護摩堂、庫裡が並んでおり、小堂ながら、地蔵堂、篁堂、が建っている、また、正面の池には小さい橋が架かっており、弁天社がある。

車道(参道)は2018年(平成30)7月の豪雨災害で、大きく抉られた箇所あり、手前の駐車場から山門までは徒歩通行(急坂あり)となっていて、年配者には聊かきつい

竹林寺伽藍と仏像

山門

左右に仁王像(金剛力士像)を安置した
仁王門である。
様式は
折衷様式・切妻造の八脚門である。                    
平成3年(1991)の台風で倒壊し、現在の仁王門は平成8年(1996)の落慶である。


仁王像・阿形(東広島市指定重文)

山門の右側に安置されている。(吽形は左側に安置)

年代
:南北朝時代・康永2年(1344)の胎内銘あるも、一部に鎌倉時代の様相が見られることから、康永2年以前の作と考えられているとの由。(東広島市教育委員会)

様式
寄木造 法量:295㎝(吽形は282㎝)

姿:上半身裸形、腰に裙を着け、左手に独鈷杵を持ち、両肩から天衣を垂らし、両脚を広げ、髪を髷に結い上げ、筋骨隆々とし、仏敵を威嚇して立つ。

本来の尊名は
金剛力士像であり、寺院(竹林寺)の山門で、阿形、吽形に分かれて(右写真は阿形)邪悪から仏法を守護している。

尚、
吽形は山門の左側で右手を肩口に上げて、掌を前に向けて仏敵を威嚇して立つ。(写真は省略)
八千代橋

山門をくぐり本堂に至る途中、八千代池に架かる橋


左写真は1998年7月撮影のもので、現在は2010年に新しく架け替えられている。新設の橋は構造など以前のものと変わっていない。

橋名の由来 : 花王寺(竹林寺)が出来たころ、入野の里の八千代なる女性が花王寺を信仰し、千日詣を行ったところ童子を授かり「われ篁なり」と名乗ったとのこと。橋名は篁の母親の名前に由来すると思われる。

(小野篁にまつわる伝説は当ページの末尾に紹介しました。
本堂(重文)

時代
:室町後期、年代:永正8年(1511)の建立されているが、当初は壁がなく、天文14年(1545)に壁、須弥壇、厨子が作られたと推定、従って、永正8年建立、天文14年ごろ改修したとおもわれる。東広島市教育委員会)

構造、形式等
:桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、こけら葺、(参考:国指定文化財等データベース)、附/厨子1基:桁行一間、梁間1間、入母屋造、妻入、板葺

様式:一軒(ひとのき)、平行繁垂木、間斗束、藁座、桟唐戸などが混在した折衷様式

内陣:本尊の千手観音立像は厨子に安置(秘仏),

脇陣
地蔵菩薩半跏踏下像(県重文)、南北朝時代、建武5年(1338)、像高84㎝、寄木造、漆箔造、ほか数躯が安置されている。

真言宗寺院の本堂で三間堂として、比較的大きい規模。また軒廻りまで当初材の残りが良い。(参考:文化庁データベースの解説)
閻魔と十王像と地蔵本堂の向かって右側の十王堂(写真は撮影ミスの為ありませんに安置されている。

最前中央に閻魔王、その後ろ、向かって右側に閻魔を含む5躯の王、左側に他の5躯の王、左右合わせて10躯の王で十王像と呼ばれている。
閻魔王については、単独像(最前)と十王像の一人としての閻魔王の2躯祀られている。つまり閻魔王像が2躯祀られ、後上段に地蔵菩薩坐像が祀られている。(閻魔王:寄木造、彩色)。地蔵:寄木造、漆箔)、造立は室町時代と思われる。
尚、地蔵菩薩は鎌倉初期に「地蔵菩薩発心因縁十王経」が生み出され、閻魔の本地仏が地蔵菩薩であるといわれたことから閻魔と一緒に祀られたものと思われる。

中央の閻魔像に山神様と名札があるが、閻魔はサンスクリット語のヤーマを音訳したものとされている、故に山神とした?(十王の中で単独で造立されるのは閻魔像だけである)。また閻魔像の左右後方で水色の衣を着けた2躯の小像は司命(しみょう)と司録(しろく)と言い裁判の判決文を読み上げ、記録する書記官である。、
十王信仰

中国では、死後の世界に十人の王がいて、生前の罪を裁くという十王思想があり、日本でも鎌倉時代の入り、その信仰が広まっていった。この十
王思想に基づき造られたものが十王像である。

姿
:十王像で共通するのは、堂々たる体躯、道服(中国・道教の道士が着ける衣服)、頭上に冠を被っている。

造立様式・時代:
寄木造、室町時代と推定。

護摩堂(東広島市重文)

本堂に向かって左側の建物。本堂とは渡り廊下で繋がっている(竹林寺の現存主要伽藍(庫裡、十王堂、本堂、護摩堂)はすべて渡り廊下で繋がっている。

時代:享保九年(1724)新再建の棟札ある由、元の建物は本堂と同時期の室町時代か。

構造形式等:桁行三間、梁間三間、寄棟造。、
軒裏:平行垂木、和様組物、正面:藁座、桟唐戸、華頭窓など混在する折衷様式。
竹林寺の本尊は千手観音菩薩(秘仏で常時非公開)ですが、上掲十王堂に安置の十王像の他、本堂に地蔵菩薩半跏踏下像県重文)を始め多くのの仏像、また、庫裡には「龍の襖絵」(江戸時代)等、多くの貴重な文化財が保存されている。

小野篁
(おののたかむら)(802~852)とは、参議小野岑守(おののみねもり)の子、嵯峨天皇に仕えた平安初期の官僚。従三位・参議の高位になり、文武両道に優れていたが、自由奔放な性格で奇行が多く、遣唐副使に任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨天皇の怒りに触れ隠岐に流罪となったこともある。

小野篁伝説 芸州入野の郷に住む子のない女性が、花王寺(現・竹林寺)の本尊に1,000日の願をかけ満願の日、お堂の中から童子が現れ、五色の玉をその女性に授けた、その女性は後に男児を出産、その子は自ら「吾は篁なり」と名乗ったという。その子が後に平安京を目指し、都で、関白小野大臣良相の娘と結婚し、「小野篁」と号した。参議に登用され、文学博士に任じられた「篁」は、昼は朝廷で官僚として働き夜は冥界で罪の軽重を裁いたという。51歳の時、京都愛宕寺前で大地をけ破り地底に入った。 100年後再びこの世に生まれ、僧となって郷里の寺(竹林寺)で冥途の十王像の内、9体を刻み、残り1体は自ら生身の仏となったという。(河内町観光協会・看板より要約)

・篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王の許で裁判の補佐をしていたという伝説が、平安末期から鎌倉時代にかけての説話集『今昔物語』などに紹介されている。

・篁は冥府との往還に井戸を使い、入口の井戸は、京都東山の
六道珍皇寺の境内に、出口の井戸は京都嵯峨の福正寺(廃寺)にあったとされている。近年六道珍皇寺の旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺では「黄泉がえりの井戸」と呼んでいる。
尚、
入口の井戸、出口の井戸の写真は上の行六道珍皇寺の文字をクリックして下さい。


竹林寺一帯は竹林寺用倉山県立自然公園となっており、境内は竹林に囲まれ、四季折々にその景色を楽しむことが出来る。

尚、このページ」の十王像他の写真は竹林寺の掲載許可を得ています。                             191007


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