吉備路の史跡





10月下旬、秋晴れの一日、同好仲間と古代のロマン漂う吉備路の史跡を訪ねた。そこは謎多き山城であり、雪舟涙のねずみ逸話の寺、そうして天皇と吉備国美女の恋物語古墳、最後は西日に影を落とす吉備路の代表的な景観,五重塔であった。


鬼ノ城(きのじょう)
総社市中心部の北北東に位置し、吉備高原の一角を成す鬼城山(きのじょうざん)(標高400m)の頂上付近(8~9合目)に2.8kmに亘る石垣と土塁で築かれた城壁に囲まれた古代山城である(ガイド氏によれば、まさに日本版万里の長城である)。築城の時期は定かでないが、現地ビジターセンターのリーフレットによれば出土遺物などから7C~8Cと推定されるとのこと。しかし、どの文献にも記されていない謎の山城である、663年白村江の戦いで倭国が敗れたのち、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築城したものと考えられている(参考:Wikipedia)

※鬼(キ)は古代朝鮮語で城を意味するらしい、この城は渡来氏族によってつくられ、彼らの逃げ込みの城という説もあるとのこと。「鬼ノ城」の名の由来となった「温羅伝説」を思いながら探訪すればより一層の興味が湧くのではないか。(影の声:オススメ)
ビジターセンター資料展示館。

鬼城山全景の模型、出土品のパネルや写真、建造物の精密な模型
などが展示されている。写真は鬼ノ城西門の模型。

城門

遊歩道展望所から見た西門。ビジターセンターから徒歩7~8分、道路はよく整備されている。

鬼ノ城の城門は、東西南北それぞれに東門,西門、南門、北門があるが楼上まで完全に復元されているのは西門だけである。現在は、西門が城内への入り口になっている。

写真は、復元された西門で、正面3間、奥行き2間の大規模な城門である。開口部床面は加工された大きな敷石となっている。
敷石

城壁の城外側と城内側に幅約1.2mに敷きつめられた道路状の敷石。

敷石の役割は、流水により城壁が洗われて崩れないように保護する
ためのもの。通路としても使用されたと言われているがが、ちょっと傾斜がついていて通路には向いていない。

鬼城山一帯の山は「岩山」と呼ばれるように、多くの石が露出し、石材は鬼城山とその近辺で確保したものと推定されている。

このような敷石は、国内の古代山城はもとより百済の山城でも類例がないと言われている。
(参考:展示パネル)


復元に際し元々の石と新たに加えられた石の区別がつくようになっている、なかなか細やかな神経の行き届い復元である。
土塁

版築工法によって築かれた土塁の城壁、下部の一部は石垣で補強され流水による崩れを保護している。

版築工法:壁となる位置に型枠を作り、枠の中に土を入れて一層毎に突き固める工法で、土壁や建築の基礎部分を強固に構築するために古代から用いられてきた。

古代の人々が、この工法で城全体の土塁を築くには、どれだけの人手と時間を要したことであろう、おそらく数十万人は必要であったか?筆者の老朽化した頭ではちょっと想像がつかない。
城壁

規模の概略は下幅7m、上幅6m、高さ6mで、城壁に囲まれた城内面積は30haに及ぶ。
(参考:展示パネル)
城壁の大部分は版築土塁で、主要部分は高い石垣である、城壁の上には板塀が廻らされていて防御性能を一層高めている。

写真は西門から続く復元された城壁。
列石

城壁の基礎となる神籠石状の列石。
昭和46年(1971)に列石が見つかり、神籠石式古代山城と認定された。
水門

城内の谷筋6ヶ所に溜まった雨水等を処理するための水門が設けられている。

写真は、第2水門、小さいトンネル状につくられ、上部は版築土塁、下部は横に目地が通った石垣になっている。水門というより排水口である。
屏風折れの石垣

東門辺りから見た石垣で「屏風折れの石垣」と呼ばれているようだ、よく見ると石垣が、立てかけた屏風の面と面の折れまがった連結部のように見える。元々の地形に沿って石垣を築いたものと思われる。

石垣は築城時の儘のようである。
アップで見ると所どころ崩れかけているようであるが、基本的には朝鮮式山城に見られる横目地が通った積み方である。


遊歩道から見る西門と共に、鬼ノ城を代表する景観である。
鬼ノ城からは、総社平野を一望に収めることができ、まさに圧巻である。

石垣の多くは鬼城山の南東側に築かれていて、瀬戸内側から眺めると非常に強固で威圧的に見えたのではないか。

(影の声)鬼ノ城の主は、眼下の敵を、唐・新羅連合軍か、はたまた大和朝廷を想定したものか、敵の動きは手に取るように判るであろう


「鬼ノ城」城名の由来となった「温羅伝説」「垂仁天皇のころ、吉備国に温羅という凶悪な性格の異国の王子がたどり着き、備中国新山に居城(鬼ノ城)構えた。大和朝廷は討伐のため吉備津彦命に命じて大軍を派遣した。
激しい攻防の末、温羅は討たれ首は吉備津神社のお釜殿の土中深く埋められた・・・・・」
(総社市観光ガイドパンフレットより抜粋要約)



宝福寺(ほうふくじ):総社市井尻野にある臨済宗東福寺派の寺院で、山号を井山と号し、本尊は虚空蔵菩薩である。(宝福禅寺とも呼ばれる)室町時代のが画僧雪舟が修行した寺としても有名である。

創建年代は不明とされているが、貞永元年(1232)に禅僧・鈍庵慧總が現在の地に伽藍を建立したとされている。その後、京都・東福寺開山の円爾弁円(聖一国師)の教えに感銘し、弁円の弟子・玉渓を迎えて元々天台宗であったものを臨済宗に改めた。

戦国時代・天正3年(1537)に起こった備中兵乱(備中の戦国大名三村元親と毛利氏・宇喜多氏による戦い―実体は三村氏と毛利氏の戦い―)で三重塔など主要伽藍を失い、僅かな建物だけが残った。江戸時代に入り、再び山門、仏殿、方丈、庫裏、禅堂、鐘楼、経蔵などの禅宗様式の七堂伽藍を備える現在の姿に再興された。
(参考:総社市観光ガイドパンフレット)
山門

明治時代の建立。1間1戸の楼門で、入母屋造り,桟瓦葺きである。

山門の多くは3間1戸或いは5間3戸が一般的であるが、宝福寺の
山門は1間1戸で扉なし、その所為か不安定な感じがしないでもない。


仏殿

山門を入ると左右2本の大杉の向こうに仏殿であり、想像以上大きい伽藍である。

江戸中期の建立。桁行5間、梁間4間、裳階付で入母屋造り本瓦葺き
の建物である。本尊は虚空蔵菩薩
仏殿内部

粽の柱に礎盤、床は磚(せん)を四半敷(しはんじき)に敷詰めた唐様
(禅宗様式)となっている。

四半敷とは、石或いは瓦敷きで目地が縁に対して45度になるように敷きつめること。
ちょっと変った禅宗様式

台輪、頭貫、波欄間に桟唐戸(珍しい花挟間)、粽、礎盤、四半敷と禅宗様式になっているが、窓は通常の花頭窓ではなく丸窓になっているのが特徴的である。
方丈

江戸時代の建立、説明板によると東西25m、南北16mで現在の伽藍の中で一番大きい建物となっている。

伝説
室町時代の水墨画家・禅僧「雪舟」が小僧時代に柱に縛られ、涙で
ねずみの絵を描いたという伝説の舞台となった建物。ただし、当時の建物は備中兵乱で焼失したため雪舟が縛られていた柱は現存していないとのこと。

三重塔(国重文)

山門ー仏殿ー三重塔と一直線に並んだ一番後方に建っている。
寺伝によれば、弘長2年(1262)鎌倉幕府の執権北条時頼が寄進したものと伝えられていたが、昭和42年(1967)の解体修理の際見つかった墨書銘から鎌倉末期の永和2年(1376)再建と判明した。
備中兵乱で焼失を免れた唯一の伽藍である。

方3間、本瓦葺き、総高約18m、柱は全て円柱である。軒の出は深く各層の逓減率は小さく南北朝時代の風格を有しているとされている。
(参考:岡山県生涯学習情報提供システム「ぱるネット岡山」)

岡山県下で三重塔としては2番目に古い塔であるとのこと。(岡山県内三重塔で最古の塔は英田町・長福寺の三重塔で弘安8年‐1285‐の建立)

外観を見た範囲では略和様であり、周囲の緑に朱塗りがよく調和している。



雪舟(1420~1506)

備中赤浜(現・総社市赤浜)の生まれ、幼少時代宝福寺で修行。後に京都・相国寺で禅を学びながら、水墨画家・周文のもとで画業の修行をする。さらに山口・雲谷庵での創作活動を経て、中国・明に渡り水墨画を本格的に学ぶ。帰国後山口を拠点に各地で多くの名作を残す。
現在、「秋冬山水図」など6点が国宝になっている。
(参考:総社市観光ガイドパンフレット)

(影の声)よく知られている鼠絵の伝説は後年の創作らしい。これが本当なれば、境内にある「雪舟の碑」は「画」の雪舟、「国文学」藤井高尚、「漢文学」の山陽から成る「三絶の碑」と呼ばれているらしいが、如何なものであろうか。


こうもり塚古墳:
総社市の南東、吉備路風土記の丘、松林に覆われた丘陵にある主要史跡である。形状は前方後円墳で、墳長100m、後円部60mの規模。
6C~7C初頭の築造と考えられている。

以前、この古墳は、仁徳天皇と吉備国の美女・黒媛の恋物語の逸話から「黒媛塚」と呼ばれていたとのこと、しかし、仁徳天皇時代は4Cとされていて、古墳の築造年代と約1世紀の隔たりがあり、たまたま古墳に蝙蝠が住み着いていたので「こうもり塚古墳」と改名したらしい。(影の声:史実は大切であるが、黒媛塚の方が吉備路には相応しい)

後円部南西側に花崗岩の巨石を組み合わせた横穴式石室が開口している。
刳抜式家型石棺

玄室は、奥行き約8m、幅約3.5m、高さ約3.5mで中に刳抜式家型石棺(長さ2.8m、幅1.4m、高さ3m)が置かれている。
石室の天井

天井石は3枚の巨石が使用されている。


石室は両袖式で全長約19m、これは奈良・明日香村の石舞台に匹敵する規模である。


備中国分寺:吉備路風土記の丘のぼぼ中心に位置する。聖武天皇の詔によって諸国に建立された国分寺の一つ、現在のものは江戸時代の建物で宝永年間(1704~1710)に再建されたもの、山号は日照山と称す真言宗御室派の寺院である。境内に建つ五重塔は吉備路の象徴である。
本堂:江戸時代の建立で普通の寺院建築である、本尊は薬師如来。

創建当時の境内は東西160m、南北178mと推定されているらしいが、
礎石もあまり見当たらず、せめて当時の金堂、講堂、山門など主要伽藍の配置図でも設置されていれば・・・ちょっと残念!

(山門を出て参道脇に創建時の南門跡、中門跡の説明立て札があったが・・・)

五重塔(国重文)

岡山県内唯一の五重塔、江戸時代・文政4年(1821)約20年余をかけて建立し、奈良時代の創建時とは別のところに建っている。

総高34m、初層から3層まで欅造、4・5層は松材が主体となっている、心柱は大面取りを施した松材で床下の礎石から相輪に達している。
また、初層4面の頭貫上に十二支の禽獣がはめ込まれている。

内陣は須弥壇を設け鳥獣座に乗った金剛界五智如来が安置されている。
(ガイド説明、説明立札より)
ガイド氏にライトを当ててもらったがよく見えず残念。

すすき越しに見る江戸時代の五重塔は逓減率のほとんどないスマートな塔で、西日に輝く美人である。(ちょっとホメ過ぎか)

ご存知、吉備路風土記の丘のハイライト

田園風景に溶け込む五重塔、参道の柵はちょっとヤボ?。
吉備路によく似合う参道脇の風物。
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                                       備中国分寺山門




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