石舞台古墳


横穴式石室を持つ古墳で、築造は7世紀の初めごろと推定されている。被葬者は不明なるも6世紀後半から7世紀初頭にかけて、この地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれている。写真は正面(羨門側)に向かって左側)

古代この辺りは、古名で桃原と呼ばれていたらしい、蘇我馬子は推古天皇34年(626)5月に亡くなっており『日本書紀』推古天皇34年5月の箇所に「桃原墓」に葬るとある。この「桃原墓」が石舞台ではないかといわれている。

石舞台の名の由来は、昔キツネが女性に化けて石の上で舞を見せたという話(近年に創作された話という説もある)やこの地にやってきた旅芸人が舞台がなかったので、この大石を舞台として演じたという話もある。【石舞台拝観券より】

江戸時代の町人学者林宗甫が元和元年(1681)に刊行した『大和名所記』(内題『和州旧蹟幽考』に「石太屋(いしふとや)」いう稜がると記している。これが転訛して「石舞台」なったという説もある。【参考:Wikipedia】
古墳は昭和8年(1933)、昭和10年(1935)に京都大学と奈良県が共同で発掘調査が行われた。
写真は正面(羨門)に向かって右側
玄室の長さ(玄門から奥壁)約7.6m、幅約3.5m、高さ約4.8m。
写真は奥壁部
30数個の巨岩が使用されていて、総重量は2,300屯と推定されている。そのうち天井石の重さが約77屯といわれている

羨道長さ(羨門から玄門)約11.5m、幅約2.2m
玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝がある。
石棺(復元品)
発掘調査では石棺は発見できなかったが、石室から平らに加工した凝灰岩の破片が見つかった。
このような発掘調査の成果と飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基に石舞台古墳の石棺を復元したものである。【現地説明版より】
封土部は方形で外斜面に自然石の貼り石が施されている。
壕は一辺の長さ55m、幅は底部で6~7.6m、北方の幅は6.5mである。
壕の外側に上幅約5mの外堤がある。
のどかな山里と石舞台と遠足、明日香の里の香りが漂う。
140426





史跡探訪目次に戻る