播州・斑鳩寺仏像

斑鳩寺といえば、法隆寺を思い浮かべる方がいるのではないでしょうか(法隆寺は別名を斑鳩寺と呼ばれている)。

ここ播州・斑鳩寺と奈良・法隆寺は、いずれも7世紀初頭に聖徳太子により創建され、以来、播州・斑鳩寺は千余年間、大和・法隆寺の支院であった。

不幸にして天文10年(1541)戦火により焼失、再建の後は天台宗となり現在に至っている。。

 尚、播州・斑鳩寺の歴史、伽藍など詳細はhttp://masayama.justhpbs.jp/ikarugadera.htmlをご覧ください。

(当ページの仏像写真は全て、斑鳩寺さんのご了解を得て、、リーフレットからの転載)

宝物館の仏たち
宝物殿

月光菩薩立像(国重要文化財)

正面中央に安置されている薬師三尊の右脇侍(向かって左)として配されている。

鎌倉時代、寄木造、玉眼?、彫眼?

持物なし、右手に月輪をもっていたか?
両肩に掛かる天衣、左肩から右腰に着けられた条帛、及び裙の衣文は深く力強く刻まれ鎌倉時代の様相を表す。胸元とお顔に漆箔の痕跡あり。

腰を僅かに右に振り蓮華座(蓮台、返り花、框で構成)に立つ。
宝物殿

日光菩薩立像(国重要文化財)

正面中央の薬師三尊の左脇侍(向かって右)として配されている。

鎌倉時代

お顔顎部に僅かに漆箔痕?あり。

腰を僅かに右に振り蓮華座に立つ。

裙の折り返し部が日光菩薩と異なるが、その他衣文は月光菩薩立像に準ずる。


宝物殿

十二神将立像巳神(国重要文化財)
鎌倉時代

胸甲、腹甲、腰甲、腕に獅噛(しかみ)と籠手、脛に脛甲を付けた唐風の甲冑をまとう。

十二神将は薬師如来の眷属(従者)で、十二人の武神の総称をいう。
髪を逆立て忿怒相で甲冑をまとった武将形は十二体共通するが、持物は様々である。平安時代後期以降十二人と十二支が結びつき、方位や時刻の守り神となる。(頭頂に十二支の動物を配す)
尊名は経典により異なるが、奈良・興福寺東金堂像を例にとれば巳神は
因達羅(いんだら)である。



宝物殿

十二神将立像酉神(国重要文化財)
鎌倉時代

像容、服飾は前掲巳神に準ずる

尊名は迷企羅(めきら)。(興福寺像の尊名に準じた)

宝物殿

十二神将立像子神(国重要文化財)
鎌倉時代
尊名は毘羯羅(びから)(興福寺像に準じた)

上半身裸という大変珍しい十二神将像である。(胸甲、籠手、腕獅噛は刻まれていない)、長靴?を履いている(通常は、脛甲を付け、沓を履く)。
又、腰甲の下に着ける裙(裳)も着いていない?、左右の脚の太さが異なるのは、造立角度の違いか?バランスが悪いような気がする。

宝物殿には八躯の十二神将立像が祀られているが、いずれも同じ工房で一揃いのものとして制作されたものと思われるが、この1躯だけ像容が大きく異なる。

講堂の丈六仏
釈迦如来坐像(国重要文化財)

室町時代 丈六像、寄木造。

納衣(如来の衣、大衣とも)を通肩に着け、施無畏印、与願印を結び、蓮華座に結跏趺坐す。
厚ぼったい衣の表現は室町時代の様相。

丈六像とは、仏の背丈の基準で、身長が1丈6尺(4.85m)あるとされることから、仏像も丈六(1丈6尺)を基準とした。坐像の場合は、半分の8尺(2.45m)となる。
一般的に大凡この寸法前後の丈六像と呼ぶ。

薬師如来坐像(国重要文化財)

室町時代、寄木造。

面長な顔(室町時代の特徴)で右手を施無畏印を結び、左手に薬壺をもち、蓮華座に結跏趺坐す。

釈迦如来と一具のものと思われるが、肩のライン、衣文の表現など、かなり異なっている、別の仏師の制作か?
如意輪観音坐像(国重要文化財)

室町時代 寄木造、二臂像(作例で多いのは六臂像)、二臂像は古様とされており、室町時代の作では珍しい。

宝冠を戴き、天冠台から天冠帯を左右に垂らす。胸飾、瓔珞を付け、輪王坐(如意輪観音特有の坐法)で蓮華座に座す。

上記の他、仁王門には、阿形、吽形の仁王像(金剛力士)が寺に仏敵を寄せ付けないように守護している。  170609




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