青龍山野中寺(やちゅうじ)




近鉄「大阪阿倍野橋駅」から乗車、「藤井寺駅」下車、近鉄バス「羽曳が丘」方面行きに乗り、「野々上」で下車、すぐ前に寺塀がある。
野中寺山門山門から境内」へ、正面に本堂
















聖徳太子が建てた48寺院の一つとされ、蘇我馬子が開基と伝えられていて、飛鳥時代まで遡る古刹である。渡来系氏族である船氏の氏寺という説もある。山門は創建当時の中門の跡であるとのこと、当時の南大門はおそらく現・山門の南側50~60m所にあったと思われる。山門からまっすぐ伸びる石畳参道の正面に本堂が建っている。


















現在の本堂は、江戸初期もので、かっての講堂跡に建立されたとのこと。金堂跡は境内の東側にある。説明看板によれば、現在残っている土壇や礎石の状況から、間口4間、奥行3間の南北に長い建物で西面していたとのこと。金堂跡の3基の宝篋印塔は江戸期のものか。


















塔跡は境内の西側に金堂跡の対面にある。説明看板によれば、凝灰岩で作られた「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められ、その規模は、東西13.6m、南北12.9m、高さ1.5mで東側に階段が存在した。(金堂と向き合っていたことが考えられる)

中央に心礎、その四方に12個の礎石が配されたいるが、四天柱礎(心礎の四方に、方形に各隅に一個ずつ配される四本柱の為の礎石)見当たらない。心礎は円孔の周辺に三個の支柱孔をもつ美しい形である。また、上面に亀趺を思わせるような亀の線刻がある。

当寺には、河内地区を代表する白鳳時代の仏像、「銅造弥勒菩薩半跏像」が安置されている。(毎月18日が拝観日のため、今回は拝観出来なかったが)像高18.5㎝の小像であるが国の重文に指定されており、台座の框に、丙寅年に「中宮天皇」(若干疑問符はつくが、斉明天皇のことか)の病気平癒のためつくられたとあるとのこと。(丙寅年は天智天皇5年・666年と推定)
地蔵堂 鎌倉時代の地蔵菩薩立像が安置されている。
地蔵堂横の渡来人風石像
ヒチンジョ池西古墳石棺 なぜか本堂横の一隅に設置されている。説明石碑によれば、ここから南西に約1km離れた場所にあったものを昭和21年(1946)に発見され、野中寺境内に移築されたもの。長さ2.4m、幅1.1m、高さ1mである。7世紀~8世紀初めのもの。
お染・久松の墓 本堂裏の墓所にある。
墓石の裏に、

享保七年十月七日
俗名 お染 久松
大阪東掘 天王寺屋権右衛

と刻まれている。
当寺の旧伽藍配置は、東に金堂、西に塔、正面奥に講堂があり、法隆寺式に似ているが、法隆寺の金堂と塔はいずれも南向きであるのに対し、野中寺は金堂と塔が向かい合っていて、微妙にことなっている。

河内の古刹に飛鳥のロマンを感じながら野中寺を後にした。



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