太山寺



















                              【太山寺の本坊(講堂・客殿・書院・庫裏・納経所がある)



「一夜建立の御堂」の伝説があるという龍雲山太山寺は、松山市中心街の北西約12~3km龍雲山の中腹にある。(高浜港と背中合わせ) その草創は古く、飛鳥時代まで遡るという、伝説によれば、用明天皇二年(587)とのこと。

天平五年(733)聖武天皇の勅願により行基によって十一面観音が安置され、その後、天平勝宝元年(749)現在地に移転されたと伝えられる古刹である。(真言宗智山派、本尊十一面観音、四国八十八箇所霊場第五十二番札所)


参道

前日訪れた石手寺とは大違いの静かな雰囲気で、密教の寺に相応しく、境内の長い山道の参道を行くと、やがて山門(第三の門)の階段下にでる。

 
山門(入母屋造)元和元年(1683)の再建。

三間一戸の楼門で、なかなか重厚な感じである。

両袖の前後にそれぞれ一人ずつ四天王が安置されており四天門とも呼ばれている。

太山寺には三つの門があり、この門は第3の門である。
第一の門は簡素な造りの冠木門、第二の門は重文の仁  王門である。
 
(このたびは、同好の仲間と一緒にマイクロバスチャ-タ-の探訪、本坊横の駐車場で下車。残念ながら第一と第二の門は見ることができなかった。)

持国天

東方の守護神、(太山寺のリ-フレットでは、寺領守護となっている) 

四天王とは古代インドで方位を守る神として信仰されていたものが仏教にとりいれられたもの。

この四天門に祀られている4躯の像は、いずれも損傷激しく、持物も欠失しており、大変痛々しい姿である。
したがって尊名を像容で判別することは困難であり、安置されている方位で推定した。)

増長天

南方の守護神。(太山寺のリーフレットでは、豊作を促すとなっている)
広目天

西方の守護神。(太山寺のリーフレットでは、仏心をおこすとなっている)
多聞天
 
北方の守護神。(太山寺のリ-フレットでは、福徳を授かるとなっている、尊名も毘沙門天となっているが、通常は四天王の一人として祀る場合は多聞天、単独で祀る場合に毘沙門天と称することが多い)

 
本堂(国宝)(折衷様式)

伝説によれば、創建は587年である。
天平勝宝元年(749)に現在地に移転され、嘉元3年(1305)の再建。
鎌倉後期・密教の本堂としては最大級とされている。
リーフレットによれば、歴代天皇の信仰心厚く、奈良時代、平安時代、鎌倉時代にかけて本尊を含む7躯の十一面観音が寄進されており、現在は7躯すべて重文であり、本堂内陣に安置されている。(いずれも秘仏で拝観出来ず、ただし2014年は四国霊場開創1200年記念として10月19日~26日に7躯全てが公開される予定))

本堂(折衷様式)

桁行7間、梁間9間、一重、入母屋造り、本瓦葺。

蟇股と出組と小壁の組み合わせが美しく本堂軒下を一周している。まさしく鎌倉建築の造形美である。
本堂(折衷様式)

本堂正面の出組(一手先)は和様である。
本堂(折衷様式)

蟇股と出組と小壁で演出されている、本堂正面の軒下の造形美。

蟇股は刳抜の本蟇股で、彫刻に重点が置かれた装飾性の強いものである。
本堂(折衷様)

左側が正面で蔀戸、右側は桟唐戸、隅垂木は隅扇垂木となっている。
山門(四天門)

蟇股と並んで藁草履が挟まっていた。誰かの悪戯か?或いは何かの意味があって意図的に挟んだものか?
袴腰鐘楼の内部壁面に描かれた地獄絵図

閻魔の傍らで罪状を読み、閻魔大王が裁き、地獄の鬼が刑執行する様子がおどろおどろしく描かれている。右下隅は、三途の川を渡るとき六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を矧ぎ取る奪衣婆。
真っ赤なル-ジュの地蔵さん(山門の下)
誰かの悪戯か、密教の寺に相応しくない光景と思っていたら、リーフレットの写真も口紅が塗られていた。

読んでみたら「昔、太山寺の茶屋の娘を力自慢の二人の男が取り合って、両側から引っ張り、娘は亡くなった。村人は亡くなった娘のために古三津と和気浜の見える峠に地蔵を祭った。その地蔵が、今は山門の下にある地蔵とのこと。

斯かる逸話はあるものの、やはり真っ赤なルージュは密教の寺には相応しくない光景である。
140527



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