周防阿弥陀寺


参道脇の寺標石辺りから眺める仁王門は、なかなかの風情である。、この度で4度目の訪れであるが、訪れる都度に趣を新たにする思いである。
治承四年(1180)、兵火により焼失した東大寺再建の大勧進に任ぜられた俊乗房重源により、建久六年(1195)建立された華厳宗の由緒ある古刹で山号を華宮山と称する。また、紫陽花寺としても有名である。
 仁王門は、建久年間(1190~1198)の建立とされているが、貞享2年(1685)右田領主毛利就信(もうりなりのぶ)により再建された
(説明立て札より)阿弥陀寺の建造物中最古の建物と云われている茅葺の八脚門である。
寺標石付近から見た仁王門
鎌倉時代前期の建立

















観音橋を渡り石段を進むと、中門である。この門は元国庁寺(周防国は東大寺の領地となるがその後、国府が姿を変えて寺として残ったものの総門で国衙の解体に伴い明治4年(1871)東大寺から寄贈されたものである。 四脚門、切妻造、両袖潜門付である。(中門の写真は阿弥陀寺発行写真集より)
 本堂は享保一六年(1731)右田領主毛利広政により再建された。堂内は内陣と外陣に分かれ、正面の厨子に本尊阿弥陀如来立像、向かって右に弥勒菩薩坐像、左に大日如来坐像(金剛界)が安置されている。本尊前には、多宝塔、仏舎利塔、五鈷鈴などの密教法具が置かれた壇がある。
本堂・享保一六年(1731)の再建中門



















念仏堂・創建当時は、丈六の阿弥陀如来が安置されていたとのこと。当時の建物は、文明一六年(1484)と明治三五年(1902)に焼失。現在の建物は、その後に建てられたもの。堂内には、阿弥陀如来坐像(像高97㎝)を安置している。
開山堂・俊乗房重源上人の坐像が安置されていた。現在は、宝物殿に安置されている。
宝永六年(1709)の再建。
経堂・享保四年(1719)の再建。
護摩堂・享保一六年(1731)毛利広政による再建。現在、五大明王(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)が安置されている。
宝物殿に保管されている国宝の鉄宝塔の銘文に、「鐘楼、六葉鐘一口、竪三尺、口一尺八寸」と記されているが、その鐘は失われた。昭和二八年(1953)阿弥陀寺が東大寺の別院となったのを記念し、東大寺六葉鐘を模造して東大寺から寄贈されてもの。
この鐘は駒爪に6箇所の切り込みが入っている。
宝物殿は、重源上人寿像、釈迦如来坐像、ほか多くの仏像。国宝の鉄宝塔、水晶三角五輪塔、鉄槌印など、貴重な文化財が保管されている 
俊乗房重源上人寿像釈迦如来坐像(宝物殿)
































俊乗房重源上人坐像・
鎌倉時代、像高88.7㎝、一木造、彫眼。その面貌は、やや、不均衡な左右の眼と真一文字に閉じられた口など、東大寺再建に対する不退転の決意を表している。その写実性は鎌倉彫刻の特徴である。
釈迦如来坐像・鎌倉時代、像高85㎝、寄木造、玉眼。秀麗な顔立ちは、一見、快慶の作品を思わせる。通肩に納衣を着け、釈迦の五印の一つである説法印(転法輪印)を結び、(通常説法印の右手は、人差し指と親指で輪を作るが本像は刀印のようになっている)蓮華座に結跏趺坐している。納衣の衣文は力強く、深く刻まれ、鎌倉彫刻の特徴を表している。
地蔵堂本尊・地蔵菩薩半跏踏下像十一面観音坐像






























石造地蔵菩薩半跏踏下像
・南北朝時代、総高72.4㎝、体躯、台座、頭光を含め一材から刻み出している。右手に錫杖を持ち、左手は手首から先が欠損(恐らく宝珠を戴いていた)。地蔵菩薩は冥界に墜ちた子供を守るとされているが、本像のやさしい表情は、それを物語っている。また、頭光の上半分が欠損しているため、「三日月地蔵」と呼ばれているとのこと。
十一面観音坐像(木喰仏)・江戸時代、総高64.6cm、頭部、体躯、台座全て一木から彫出している。頭上の小面を3段に配し、両手で水瓶を持っている。太い眉に団子鼻で、ほほ笑む表情など、滑らかな彫りと曲線的な表現は木喰仏の特徴.である。(同じ江戸時代の円空仏は力強い彫りと直線的な表現である)


本ペ-ジの仏像写真は、阿弥陀寺住職のご了解のもとに、阿弥陀寺発行の冊子から転載したものです。(地蔵菩薩半跏像を除く、地蔵菩薩半跏像は、2004・12月撮影のもの)快く承諾いただいた阿弥陀寺さんに感謝。




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