松江・千手院
平安仏2躯



高野山真言宗 尊照山千手院

千手院由来によよれば、古くは、能義郡富田の郷(広瀬町)にあったされているが場所も開山、開基も不明である。堀尾吉晴が松江城築城(慶長12年・1607)に際し、本丸の鬼門に当たるこの地に、広瀬から当山を移し、鬼門封じの寺としたことが、出雲地方史の研究基本とされている「雲陽誌」や松江藩の右筆平賀隆顕が元禄のころ書いた「尊照山記」に記述されている。

堀尾、京極、松平の治世を通じて国守代々の祈願所、城下七ヶ寺の一つとして重きなしたが、 延宝六年(1678)城下の大火で伽藍悉く焼失、古文書の類など全て失った。その後、度重なる類焼、失火を繰り返し、文化十三年(1817)に再建されたのが現在の本堂、不動堂である。

境内全域が松江市指定の緑地保全区域で、樹齢200年以上とされる枝垂桜は松江市指定の天然記念物である。緑深い境内は市民憩いの場ある。
                                                     (参考:千手院由来書抜粋及び住職の説明を要約。尚、本堂写真は落合郷土史研究会米田会長より提供受けたもの)

尊照山千手寺は、白壁土蔵の酒蔵など、町並み
に城下町の雰囲気を残す石橋町の小高い丘に
伽藍が建っている。

参道途中にある広場(千手院の駐車場を兼ねて
おり、マイクロバス以下の車種であれば駐車可
但し、事前の許可必要)で、優しい顔の弘法大師
に出迎えられる。
本堂

千手院・本尊千手観音が安置されている本堂は
松江城の書院を移築改造したもので内部は通常
の寺院と異なり、上段の間、武者隠の間、など当
時の遺構が見られる。
(名誉住職の説明より
千手院・本尊千手観音立像

通常の千手観音と異なり、合掌する本手と脇手
8手で計10手の十臂像で大変珍しい姿である。
(筆者は拝観していないが、京都・上京区にある
雨宝院・重文の千手観音も十臂像とのことである

一般的には本手(2)と脇手(40)で四十二臂で造
られる(唐招提寺、葛井寺の千手観音のように実
際に千本の手を持つ像もある)。

本像は一木造で、平成17年本尊修理の際、平安
時代のものであることが判明した
(名誉住職談)

膝前に大きく2重に湾曲させた天衣、裙襞の浅い
彫りなど藤原時代の特徴が見られる。残念乍ら
頭上の化仏は見られず(欠失?)、また、光背と
台座は後補とのこと。



(写真はリーフレットより転載、千手院様了解)
不動堂

松江城天守閣守護の本尊・不動明王坐像が安置
されている。
毎年1月3ヶ日と毎月28日には護摩供養が行わ
れる。

不動堂本尊・不動明王坐像

頭上に莎髻(しゃけい)を結び巻毛で弁髪を左肩
に垂らす、眼は天地眼(右目は見開き天を見、左
目は半眼で地を見る)口元は右牙上向き、左牙は
下向で、物凄い忿怒の表情。右手に宝剣、左に
羂索を持ち衆生を教化すべく岩座に坐す。


比較的浅く刻まれた条帛の襞、一般的に天地眼
は平安中期以降に多い、これ等の表現から外か
ら拝観する限り藤原後期の作と思われる。
尚、火焔光背(迦楼羅炎光背)は後補とのこと。

(写真は許可を得て撮影しています、深謝)
境内は松江の城下町を眺望できる最適の地との
ことで、南西方向に松江城天守を美しく眺めること
が出来る。

千手院を訪れた日は不動堂で護摩供養が行われる日であった、多忙中にも拘らず時間を割いて、詳細に解説いただいた名誉住職に多謝。

150531



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