京都・千本釈迦堂





千本釈迦堂(大報恩寺)正面参道京都・市バス「上七軒」下車、七本松通りを北へ、徒歩3~4分で参道正面に出る。正式名称を瑞応山大報恩寺と称する真言宗の寺である。
 

 鎌倉初期、承久三年(1221)義空上人によって草堂が建立された。安貞元年(1227)建立された本堂は現在も創建時そのままのものである。
(参考:リ-フレット) 嘉禎元年(1235)堂塔伽藍が整えられたが、応仁・文明の乱を始め度々の災火に見舞われ諸堂宇焼失せるも、本堂は焼失を免れた。
 

 応仁元年(1467)から文明九年(1477)の10年間に亘った内乱(応仁・文明の乱)で京都は主要戦場となり、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けたが、本堂は東軍(守護大名 細川氏)西軍(守護大名 山名氏)の両陣営から手厚い保護を受け、奇跡的に災火を免れた京洛最古の建造物として国宝に指定されている。













【本堂】 国宝。入母屋造の桧皮葺。桁行5間、梁行6間、正面に1間の向拝を設ける。また、正面は5間全てに蔀戸が設けられている。本尊釈迦如来坐像(秘仏)が安置されている。

鎌倉初期、安貞元年(1227)義空によって建立、京都市中で最古の建築物。
【本堂内陣】 中央に、方1間を極彩色の四天柱で囲まれた内々陣に須弥壇を設け、秘仏の本尊釈迦如来像(厨子内)(重文)が安置されている。 (註:四天柱…仏堂の中心に設けられた四本の柱。特に五重塔、三重塔、多宝塔などの初層の四本柱を云う場合が多い。中央の須弥壇を囲むように配置され、仏像や文様などが極彩色に描かれることが多い)
【本堂外陣】 隅柱残し、他の柱を省略した広い外陣である(内陣、外陣区画の初期の遺構とのこと)。
【柱の刀槍痕】 内陣の柱に残された刀傷痕は、応仁・文明の乱の激しさを今に伝える。
本堂脇間に安置されている巨大なおかめ像 
同寺は、夫婦円満にご利益があるとされているゆえか本堂脇間には、各地から奉納されたおかめさん、お福さんの人形、或はお面が多数陳列されている。                                                         
【おかめ塚とおかめ像】 千本釈迦堂は「おかめ塚」伝説の寺としても知られている。                         

鎌倉時代の初め、洛中、洛外に聞こえた棟梁高次が本堂を建てる際、四天柱の一本を誤って短く切り落としてしまった。困っている夫の姿を見た妻の阿亀がは〝いっそ斗栱を施せば〟と助言をした。この着想が功を奏して見事大堂が完成した。                                           
妻の提言によって棟梁の大任を果たしたことが、世間に知られないようにと阿亀は、上棟式を待たずに自刃して果てたということです。高次は上棟の日に、亡き妻の面を御幣に付けて完成を祝った。                                                         
人々は阿亀の菩提を弔うために境内に宝篋印塔を建立したとされている。(説明版板要約) 尚、おかめ塚の宝篋印塔は、おかめ像に向かって右隣りに建てられている。                                                 

現在でも家の棟上げには屋根裏におかめ御幣を飾る習慣がある。
  
                                      
【北野経王堂願成就寺】    足利三代将軍義満は幕府に叛いて挙兵した「明徳の乱」(明徳二年・1391)で義満に討滅された山名氏清とその一族の追福供養を翌年に行い、応永8年(1401)北野社(北野天満宮)の社頭に三十三間堂の1.5倍という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付けた。                                                      

江戸期に入り荒廃著しく寛文十一年(1671)解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経五千余巻、義満筆の「経王堂額」、什宝遺品の一部が本寺に移され現在は霊宝殿に保管されている。                                    
    
解体された遺構の材で縮小復元されたのがこの堂である。 (説明版要約)        
                        
尚、本寺の霊宝殿には、本尊釈迦如来坐像以外の重要文化財の仏像が安置されている。撮影禁止のため写真で見せられないが、次の諸仏像が安置されている。

・木造十大弟子立像10躯(重文)、快慶晩年の作、建保六年(1218)の銘あり。釈迦に従う10人の高弟で、舎利弗を始め10躯全て揃っている。像高いずれも  100㎝弱。
・木造六観音像6躯(重文)、定慶の作、貞応3年(1224)の銘あり。聖観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、准胝観音、如意輪観音、の6躯全て揃っている。像高いずれも190㎝程度で如意  輪観音を除き他は立像。
木造千手観音立像(重文)、弘仁・貞観時代の作、一木造、像高176㎝。当寺建立以前の古像、伝・菅原道真自刻の像。
傅大士(ふだいし)及び二童子像、室町時代の作。北野経王堂に安置されていたもの。傅翕(ふきゅう)・普建・普成の三尊像では我が国最古の遺例。(註:傅  大士…中国南北朝時代の在俗仏教者。本名傅翕、転輪蔵の創始者、後世経蔵などに安置される。俗に「笑い仏」といわれる。

この他にも幾多の文化財が保管されていて、見応えのある収蔵庫であった。

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