関宿
【百六里庭(眺関亭)地蔵院方向(西方)の眺め】
鈴鹿郡関町(現;亀山市関町)は、越前の「愛発(あらち)」、美濃の「不破」と共に日本三関とされた伊勢「鈴鹿の関」である。鈴鹿山脈の東麓に位置し、関宿の「関」は「鈴鹿の関」の「関」である。古代より交通の要衝であり、古代に建てられたとされる「地蔵院」は近郷人々の信仰をあつめ、門前町が形成され集落が発展していった。
中世に至り、伊勢平氏の流れを汲む豪族関氏が鈴鹿・亀山の一帯を治め、集落、道路などが整備され街並みの元が築かれた。
近世になって、宿駅制度が整備され東海道に53の宿場が設けられ、品川から数えて47番目の宿場が「関宿」である。(関町内には48番目の宿場「坂下宿」もあった)
明治時代になり、宿駅制度が廃止された後も往来する旅人はむしろ増加傾向で宿場は栄えていたが、明治23年(1890)、関西鉄道(現JR関西本線)の開通により鉄道利用の旅が増えたため往来を行き交う旅人相手の商売が成り立たなくなり、しだいに近隣の人々相手の商売となって、徐々に往来の賑わいは、薄れて、静かな町へと変わり、現在に至っている。
旧東海道の宿場の多くが、当時の面影を残していないとされる中で、関宿は往時の街並みが残っているとされ、昭和59年(1984)国の重要伝統的建造物群保存地区となり、伝統ある歴史文化を生かした新しい街づくり取り組んでいるとのことである。
左写真は関宿・新所の街並み。. .無電柱化が進んでいてスッキリ!! 東海道47番目の宿場町・関町は「西の追分」で大和街道(国道25号)と「東の追分」で伊勢別街道(参宮道)と分岐を結んで旧東海道が走っている。 かつて参勤交代やお伊勢参りの武士、商人などの旅人を伊勢や京へと運んだ街道で、本陣や旅籠、が立ち並んで賑わいを見せていた。 今でもその面影を色濃く残している。 |
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高札場 幕府の法度や掟書・宿場の決まりを掲示した場所。 関宿の高札場は江戸時代の絵図によると、関宿中町北側(現郵便局)にあり「お茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期は本陣の役割果たしていたが、本陣が確立後は亀山藩の施設として番所などが置かれていた。 関宿高札場は、このお茶屋御殿の街道に面した場所にあり、間口11間余の中央に、枡形状の土塀に囲まれ、高札場の建設、高札の付け替えなどは、亀山藩が行っていた。 明治10年(1877)周囲の土塀などを含め全てが撤去されたが、「関町町並み保存会」、「関町観光協会」関町案内ボランティアの会」の高札場復元要望に基づき、復元された。 (関町教育委員会・高札案内板の要約) |
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三番町山車倉と問屋場跡碑 「関の山車」は、旧東海道の祭礼行事で、元禄年間(1688~1703)から伝わるとされている。最盛期には、16基もの山車山車があり,横幕、見送り幕、提灯など豪華な飾り付けで、競い合い笛、太鼓を奏でながら、宿の軒先をかすめ巡行した。(参考:亀山市文化財リーフレット要約) 尚、「成し得る限度」「精一杯のところ」という意味で用いられる表現に「関の山」(せきのやま)という言葉が使われるが、これは、関町から八坂神社の祇園祭に出される山車=山が非常に立派であったため、これ以上の山車は造れないであろうと思われ「関の山」と言うようになったとのこと。(参考:語源由来辞典) 問屋場跡:江戸時代宿駅の人馬の継立(つぎたて)、助郷(すけごう)、賦課などに関する事務を執る役所があった所。 |
環金具 町屋の玄関の柱に付けられた牛馬を繋ぎとめるための環金具である、言わば江戸時代の駐車(馬)場か。右の写真は馬用と思われる。牛用はもっと低い位置に付けられる。 これ等を見つけながら散策するのも宿場散策の楽しみ方の一つであろう。 |
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伊藤本陣跡 関宿には、伊藤本陣と川北本陣の2軒あり、宿場の中心的な役割を果たした。(他に鶴屋脇本陣がある由) 伊藤本陣は、間口11間、建坪69坪、西の表門は唐破風造、檜皮葺であったとのこと。現在残っている街道に面した部分(右写真)は、家族の住居と大名宿泊時の道具置き場に供した建物である。(参考:関町教育委員会の説明版) 本陣とは、江戸時代以降大名、宮家、公家、幕府役人など身分の高い旅行者の為の宿泊施設。一般の旅籠と違い、門、玄関、書院を設けることが出来た。 |
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庵看板(いおりかんばん)とは、歌舞伎劇場前に掲げる看板で、役者の名前と家紋を描いた板の上部に屋根の形をつけたもの。(参考:goo国語辞典) 右写真は、関宿深川屋の看板で、銘菓の名前を役者名になぞらえたもの。 江戸時代東海道を歩く旅人は、歩いている方向に漢字ばかりが見えていれば江戸方向、ひらがなが見えていれば京都方向を示した。右の写真は江戸方向を表していて、当時の看板がそのまま残っている。 |
関宿への行き方:JR関西本線関駅下車徒歩約10分、宿を貫く旧東海道は約2km、時が止まったような町並みは意外と観光客少なく、静かな街であった。(171127)
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