六波羅蜜寺
本堂 国指定重要文化財 南北朝時代・貞治2年(1363)の建立。 建築様式:和様、桁行7間、梁間6間、一重、寄棟造、向拝3間、本瓦葺。 現在は、真言宗の寺院ですが、再建当初は天台宗であり、天台七間仏堂の形式とのこと。(内陣の床は一段低い) 昭和44年(1969)の解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字・三鈷・独鈷模様の瓦をはじめ今昔物語、山槐記(さんかいき)〔平安末期~鎌倉初期の公卿の日記〕等に記されている泥塔八千基が出土した。 (参考;国指定文化財等データベース、六波羅蜜寺リーフレット、Wikipedia、) |
|
阿古屋塚(あこやづか) 五条坂に住んでいた平景清の恋人・白拍子の阿古屋の菩提を弔うため、鎌倉時代に建てられた石像宝塔。塔の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いているということです。 歌舞伎 〔壇浦兜軍記「阿古屋」〕によれば〝平家の残党景清の行方を捜すため、想い人で五条坂に住む白拍子「阿古屋」を捕え、代官秩父庄司重忠は、景清の所在を問い質す。「阿古屋」は知らぬと申し開きをするが、詮議の為に弾かせた琴、三味線、胡弓の調べに一点の乱れもなく、感動した重忠は「阿古屋」が景清の所在を知らぬことが真実であると知り釈放する。「阿古屋の琴責め」とも称される。〞 (参考:現地説明版の要約) |
|
平清盛公乃塚 前掲「阿古屋塚」と並んで設置されている。「阿古屋塚」に比べるとやや小ぶりあるが、五輪塔の形式となっている。(写真左側) 空輪(宝珠)の形状から、鎌倉時代と思われるが、阿古屋塚の宝塔に比べると多少古いか。火輪が異形であり、他の石造物の部位で代用したものか? 平安末期、平家一門の邸宅が境内に多く建てられ、平家の頭領として、武家政権の拠点を京に置いた清盛の五輪塔が、ゆかりの寺・六波羅蜜寺にあるのは、むべなるかなと思う。 ただ、平家の頭領の五輪塔と白拍子の宝塔で、前者(平家の頭領)小ぶりの五輪塔、後者(白拍子)大型の宝塔が並べて設置されていると多少の違和感を覚える。 |
空也上人立像(重文) 美術本などでよく見かけるお馴染みのの像です。 鎌倉時代、像高117.5㎝、寄木造、玉眼、彩色像。像内の銘文で仏師康勝(運慶の4男)の作と判明とのこと。粗末な衣をまとい、腰に毛皮を巻き、首から鉦(かね)を下げ、右手に鉦を叩く撞木を持ち、左手は鹿の角を挿した長い杖を持つ。 複雑な衣文、頭部に浮き出た血管、足に喰い込んだ草鞋の紐など、実に写実的で、鎌倉時代の仏像彫刻の特徴をよく表している。 尚、口から針金を出し六躯の阿弥陀如来像を立てているのは、念仏を唱えると六躯の阿弥陀如来が出入りしたという伝承をビジュアルにしたもの。 |
|
地蔵菩薩立像 平安時代、元六波羅地蔵堂の本尊。左手に頭髪を束ねて持っている珍しい姿で、鬘掛け地蔵と呼ばれている。(参考:リーフレット) なだらかに丸みを帯びた肩の線、平行状に浅く刻まれた衣文は程よく整理され、定朝様式の特徴が現れている。11世紀~12世紀にかけて定朝様式の名品の一つであろうと思われる。尚、胸飾、瓔珞等を付け、裙に施された切金文様が残っている様子は仏師の技量が窺える。 |
|
地蔵菩薩坐像(重文) 鎌倉時代、リーフレットによれば、運慶の作で、十輪院の本尊だったとされている。 像高約90㎝、一木造、玉眼。左手に宝珠、右手は錫杖を持っていたと思われるが、現在は失われている。白毫、首に三道を表し、胸飾を削り出し(体躯とは別材?)、衣を通肩に着け、右肩に覆肩衣を着ける。 衣文は、深く力強く刻まれ、鎌倉時代の特徴様相を表している。 |
|
木造僧形坐像(伝・平清盛像)、(重文) 鎌倉時代、像高約83㎝、玉眼、寄木造? この像は清盛の像と伝えられている。手に持つ巻物(経巻?)から目をそらし、微妙に首を傾ける姿は、武家の頭領より求道者としての雰囲気が漂っている。 (参考:リフレット) |
|
伝・運慶、湛慶坐像(重文) 運慶一族の菩提樹十輪院に一具のものとして祀られていたものとされている。 鎌倉時代、像高約77㎝、寄木造、玉眼。運慶像は、老齢であるが、その目力は力強いものが感じられる。一方、湛慶(運慶の長男)像の方は、その表情に若々しい、新進気鋭の溌剌としたものが感じられる。 作者はよく分からないが、運慶像の深く力強い衣文の彫り、襞の処理、写実的で力強い表情など慶派の代表的な仏師ではないでしょうか? 、 |