高松・栗林公園

栗林公園の沿革
16世紀後半、元亀~天正年間にかけて当地の豪族佐藤氏(生駒氏の家臣・佐藤志摩介道益)によって、公園の西南地区に築庭されたのが起源とされている。寛永年間(1625年頃)讃岐国領主・生駒高俊公により南湖一帯が造園され現在の公園の原型がつくられた。
 寛永19年(1642)生駒氏の転封に伴い入封した初代高松藩主・松平頼重公に引き継がれた。更に10年後の延享2年(1745)5代藩主・頼恭(よりたか)公の時、園内60景を命名し完成した。以来明治維新に至るまで、松平家11代の下屋敷として使用された。
 明治4年(1871)の廃藩置県により、新政府の所有となり、明治8年(1875)県立公園として一般に公開され、さらに昭和28年(1953)文化財保護法による「特別名勝」となり、現在に至っている。
(参考:栗林公園リーフレット)

御手植え松
前に並んでいる背に高い5本の松は向かって左から
秩父宮(対象3年)、高松宮(大正3年)、エドワード・アルバート王太子(大正11年、女王エリザベス2世の叔父、エドワード8世として王位に就いたが、恋する女性のために、王位を11ヶ月で退いた。「王冠を賭けた恋」として有名)・良子女王殿下(大正12年)・北白川大妃(大正14年)、5名の方々が御手植え。
掬月亭(きくげつてい)
南亭の要に位置する四方正面(四方のどちらから見ても正面として見られる庭園、建築、彫刻など)の数寄屋造りで、回遊庭園の中心的な施設である。
歴代藩主に、「大茶屋」と呼ばれたものである。
 
 唐の詩人・宇良史(うりょうし)が詠んだ「春山ノ月夜」と題する詩の一句「水を掬すれば(「すくえば」の意)月手にあり」からとって掬月亭と名付けられたと伝えている。
(説明版より)
 
堰月橋(えんげつきょう)
園内で名前が付いている14の橋の内の一つで、最も大きい橋である。名前の由来は、弓張り月が湖面に影を映す姿に似ているから、この名が付いた。反りをもった大円橋である。現在のものは平成13年にかけ替えられたもの。(説明版より)
商工奨励館
起原は明治32年旧藩主の別荘・桧御殿跡に建てられた「香川県博物館」である。帝室技芸員伊藤平左衛門による左右対称の近代様式の設えである。
大正時代「香川県商品陳列所」、昭和に入り「香川県商工奨励館」と改称。
平成27年〝ひと〟〝食〟〝時間〟の粋を集め「讃岐の迎賓館」として新しく出発した。
初筵観(しょえんかん)
掬月亭は江戸初期に建てられた数寄屋風書院造の建物で、旧高松藩の生駒、松平の歴代藩主が茶会や仕舞を楽しんだ。
掬月亭とは南湖に面した1棟の名称であったが、現在は中央の
初筵観を含む5棟を「掬月亭」と呼ぶようになった。


ここでは殿様気分で一服の抹茶を楽しむことが出来る(入亭料:抹茶付き¥700)
黒漆井桁の菱格子
初筵観は、書院造の座敷であり、3方に囲まれた窓は、黒漆井桁の菱格子が施されている、その上に緑の紋紗が張られた意匠である。(紋紗:紗地に文様を織り出した先染めの織物)

(参考:掲示の説明書き)
和紙貼り天井
初筵観の天井は和紙貼りである、明かり障子から入る光は、天井で拡散され独特の空間を創出している(参考:掲示の説明書き)

古理兵衛九重塔(こりへえくじゅうとう)
松平家初代藩主頼重公が、正保4年(1647)京都から呼び寄せた陶工・紀太理兵衛重利を招き焼かせたお庭焼きの九重塔。
この塔は、初代理兵衛の作。
(参考:説明版)
赤松
南湖では和船での遊覧中に見つけた見事な赤松。船頭の解説を聞きながら約30分間(¥610/1人)の遊覧。
舟蔵跡
歴代藩主が舟遊びをしていた時の舟を係留場所で、東隈(とうわい)と呼ばれている。(遊覧和船の乗り場ではない)

紫雲山を背景に六つの池と十三の築山を巧みに配した栗林公園は、国特別名勝に指定されている文化財庭園の中で最大の広さを持ち、400年の歴史を持つ回遊式大名庭園である。(総面積:約23万坪)
ここに掲載した景観以外にも、小普陀、南湖、楓岸、飛来峰、芙蓉峰、芙蓉沼、根上がり五葉松、など多くの見どころがあり、変化にとんだ景観を醸し出している。

素朴な疑問:栗林公園には立派な松は沢山あるが、栗の林が見当たらないなぜだろう? 築庭当時は庭内北側に栗林があり、「栗林荘」と呼ばれていた。しかし10代藩主・松平頼胤は鴨狩が趣味で在ったので、「栗林荘」の北側一帯を鴨場とした。文政7年(1824)鴨場に支障をきたすとして大がかりな伐採を行い、栗の木は僅か3本を残すのみとなったが、この3本も全て枯れていまった。現在は昭和46年に植えた32本の内の10数本が日暮亭の北東部残っているらしい(普通の栗の木で態々見る程のものでもないとのこと)つまり、栗の林が見つからないのは、10代目松平のお殿様の所為である。 151123




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