廿日市・大野の史跡巡り


【三県一望の地からの眺め】

11月下旬落合郷土史研究会主催の大野地区史跡巡りが行われた、その一部である。

四十八坂石畳モニュメント
JR大野浦駅から徒歩約20分で、石畳道(旧西国
街道の一部)にたどり着く。平成3年の発掘調査
で道幅2.5mの石畳道が発見された。(立札あり)
現在は保護のため簡易舗装が施されているが、
この地点から更に進み(距離はごく短いが急登坂
)広い道路を横切り、細い下り道に入ると石畳が
復元されている処がある。
この辺りは四十八坂と呼ばれ、西国街道の中でも
難所の一つとされていた。
 振り分け荷物を肩にして、次から次へと現れる
上り下りの坂道を歩む旅人の姿が思い浮かぶ。
宮浜温泉源泉
経小屋山を背景に大野瀬戸に面した保養地とし
て昭和40年(1965)に開設された宮浜温泉は環
境の変化とともに湯量が減少傾向にあったので、
新しくこの地に平成5年(1993)に地下1400mま
で掘削して掘り当てたもの。地下層の殆どは花崗
岩で構成されている。
この広場に丸く�くり抜かれた石は掘削時の副産
物で敷き詰めたもの。

泉質は単純弱放射能泉で弱アルカリ性の湯であ
る。所謂「美人の湯」と称される湯である。
残念社への路傍にあった「ざんねん砦」の石柱

最近立てた石柱のようであるが、何処に砦がある
のだろうか。                        
残念社(残念さん)
慶応2年(1866)第2次長州戦争(芸州口の戦)で
は四十八坂も激戦地となった。西国街道を下る幕
府軍は戦況はかばかしく、押し戻され広島領内で
両軍対峙する中、宮津藩依田伴蔵は軍師として
単騎長州陣に赴く途中、四十八坂で長州軍に狙
撃され「残念」と叫んで倒れた。土地の人々はそ
の死を悼み祠を建てて「残念さん」と呼びお祀りし
た、7月9日の出来事である。

わすれやめ 胡蝶の夢の つかのまも
         花に宿りし 春のめぐみ〟

                  (依田伴蔵詠歌:説明版より)
三県一望の地

残念社から西国街道を西へ
約50mほど進んだ場所にあ
る三叉路、ここから安芸の島
々(広島)周防大島(山口)
伊予の山並み(愛媛)を眺め
ることが出来ることから、吉
田松陰が「三県一望の地」と
呼んだそうだ。
三叉路にには、「従是大岩
見透線境界」と刻まれている、
ここがかての境界線でだったと思われる

古蹟・吉田松陰腰掛岩
現地説明版によれば、「〝親思う 心に勝る 親
心今日のおとずれ 何と聞くらむ〟の一首を残し
て江戸に護送される途中、八坂峠のこの岩に腰
を掛けて、遥か故郷の島である大島を望み、父母
の恩愛に感激し、「この場こそ〝三県一望の地で
ある〟と故郷に別れを告げた場所と言われてい
る」となっている。
 冒頭の一首は獄中から両親に宛てて送られた
ものと言われており、この場で詠んだものではな
い、という説もあるらしい。

京都大学原爆災害総合研究調査班遭難危難碑


太平洋戦争終戦時宮浜には大野陸軍病院があり、多くの原爆被災者が収容されていた。この原爆被災患者の治療調査のため、京大医学部、理学部で編成された調査団が大野陸軍病院に滞在していた。
 

昭和20年(1945)9月17日枕崎台風
(鹿児島県枕崎付近に上陸、日本を縦断した台風。室戸台風、伊勢湾台風、と並んで昭和の三大台風の一つ。死者・行方不明者合わせて3,756名、負傷者2,452で各地に大きな被害が発生した。特に広島県では、死者・行方不明者合わせて2,000名を超え、被害は甚大であり、原爆の惨禍に追い打ちをかけた)の豪雨で大野陸軍病院の中央を流れていた丸石川で山津波が発生、陸軍病院の建物の多くは山陽本線、国道を越えて海中に没した。このため同病院に入院中被爆者殆ど全員と職員合計156名の尊い命が奪われた。この中には、京大調査班30名中真下教授(内科学)、杉山教授(病理学)以下研究班員11名の氏名が碑の中央部にはめ込んである。

碑の建設は、京大菊池名誉教授を初め京大関係者広島県下の諸団体、広島県、広島市、大野町、原対恊、芝蘭会広島支部、その他多くの人々の支援で建立された。
 設計は京大増田名誉教授の指導のもと京大前田教授が担当した。碑の除幕式は昭和45年(1970)9月21日に行われ、三角形の壁4面が四方から聳え立つように組み合わされたデザインで、大地から空高く舞い上がる人間の復活を象徴する意図が込められている。
(参考:「京都大学原爆災害総合研究調査班遭難記念碑の由来」、廿日市観光協会偏パンフレット「はつかいち」151128





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