一乗谷朝倉氏遺跡
長い歴史に埋もれていた一乗谷は、唐門に戦国の臭いを漂わせながら平成の世に蘇っていた。
戦国大名朝倉氏の城下町遺跡は、福井市街の東南10kmに位置し一乗谷城(山城)とその山麓の城下町からなる。史跡全体は、足羽川の支流一乗谷川沿いの細長く南北3kmに広がっている。現在は、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財の三重指定となっている。
唐門
朝倉氏館の正面、堀に面して建っていて、幅2m強の向唐門である。但し、この門は、朝倉氏の遺構ではなく、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔う寄進した松雲院の門と伝えられている。正面の蟇股には、豊臣家の「五三の桐」と棟の鬼瓦に朝倉家の家紋(三ッ木瓜)が刻まれている。 現存の門は江戸中期に再建されたものである。
館跡
当主朝倉義景の住居跡で、東側背後に一乗谷城があり、西、南、北側に土塁を築き、その外側を堀で囲んでいる。三方の土塁には、それぞれ隅櫓や門があったとされていて、西側にある現在唐門が建てられているところに正門があったと云われている。
尚、5代朝倉義景の墓所は館跡の東南の隅に現存している。天正四年(1576)村民によって建てられた祠の場所に、寛文三年(1663)第四代福井藩主松平光通(まつだいらみつみち)により募塔が建立された。前面にある礼拝堂は、平成24年4月に新しく建立されたもの。
復元町並
盟友浅井氏と連携し対信長に共同戦線を張るも、姉川の戦い(1570)で敗れたのがきっかけとなり、ついには天正元年(1573)越前・大野六坊賢松寺で自害し朝倉氏は滅亡した。
滅亡から400有余年、長い眠りから目覚めた一乗谷は、往時を偲ぶ町並が復元されており、現在町屋が10軒程度復元されている。その町屋では、裏庭、井戸などで往時の生活を偲ぶことができる。
西山光照寺跡 一乗谷の北西に位置し、朝倉氏資料館前の農道を入り、車約1〜2分の所にある。(JR越美北線・一乗谷駅を挟んで反対側) 西山光照寺は、現地説明版によれば、「当時隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院であった。一説には朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(初代朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建られ、盛舜上人によって再興された寺院と伝えられる」とある。
寺跡には、40体余りの石仏が向かい合うように並べられている。一乗谷全体で石仏、石塔の数は3,000体にものぼるとのことで、その大半は、天台宗真盛派の寺院に集中しているらしい。この宗派は石仏、石塔を多く造る宗派のようである。
石仏群 寺院跡の南北向かい合うように建てられた覆屋に、半肉彫りの大型石仏が40体ほど並べられている。いずれも青味がかった石材【笏谷石(しゃくだにいし)とのこと】に彫られている。
いにしえの道に秋色を感じながら一乗谷を後にした。
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