梅雨時期、新緑の嵯峨野に点在する古寺を巡り、翌日、東山山麓に建つ京都五山の名刹・東福寺~稲荷神社の総本社・伏見稲荷を訪れた。


あだしの念仏寺
あだしの念仏寺参道入り口あだしの念仏寺標柱



嵯峨野にある浄土宗の寺で、寺伝によれば弘仁2年(811)、空海が化野の地に五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したと伝えられている。 後に源空(法然上人)が念仏道場を開き念仏道場となり現在は、華西院東漸院念仏寺と称する。 










西院の河原参道の石段を上がり、受付を済ませて境内に入ると、8,000体と云われている夥しい数の石仏、石塔が祀られている。この地は古来より葬送の地で初めは風葬であったが、後世土葬となったもので、明治36年(1903)頃に化野(あだしの)に散在していた多くの無縁仏を地元の人々の協力で掘り出し集めたものである。
これらは、空也上人の地蔵和讃に、これはこの世のことならず、死出の山路の裾なる、賽の河原の物語、聞くに付けても哀れなり…」「十にも満たぬみどり児が賽の河原の石をとり あつめこれにて回向の塔を積む・・・」とあるように、みどり児が一つ二つと積み上げた賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。(参考:念仏寺リ-フレット、Wikipedia)



本尊・阿弥陀如来座像本堂の本尊・阿弥陀如来座像は一見、鎌倉時代を思わせるが・・・、また、寺伝では湛慶作というが?、本堂は江戸中期の正徳2年(1712)の再建である。

仏舎利塔前に建てられたトラナ






尚、境内仏舎利塔の前に大変珍しいトラナが建てられていた。(トナラとはインドの仏教寺院やヒンドゥ-教に見られる門のことで、ストゥバの塔の四方に設置されていた)恐らく京都では、ここあだしの念仏寺でしか見られないと思う。念仏寺のトラナは、最上部に仏法の象徴である宝輪が付けられた立派なトラナである。全国的にも建てられている寺院は少なく非常に珍しいのではないでしょうか。京都の寺院案内などにも殆ど触れられていない。











二尊仏二尊院への道




化野
(あだしの)
は、東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野(れんだいの)と共に平安時代以来、京の庶民の葬送の地であったという(参考:Wikipedia)  兼好法師は『徒然草』第7段であだし野の露きゆる時なく 鳥辺山の煙立ち去らでのみ 住み果るならひならば いかにもののあはれもなから・・・」と記している。
暫し、幽玄の世界に浸ったのち、次の目的へと向かう。



嵯峨野の名刹・二尊院(嵯峨釈迦堂)
二尊院総門



小倉山の東麓にあって、山号は小倉山。正しくは「小倉山二尊教院華台寺」という。本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため二尊院と呼ぶ天台宗の寺である。承和年間(834~847)嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が開山したと伝えられる。
その後、寺勢衰え荒廃するが、鎌倉時代初期、法然により復興、法然の高弟湛空らによって堂宇が再興された。 応仁の乱(1467~1477)により堂塔伽藍消失するが本堂と勅使門(唐門)が約30年後の永正18年(1521)に三条西実隆によって再建された(参考:二尊院リ-フレット、Wikipedia)







参道「紅葉の馬場」




角倉了以が伏見城から移築したとされる重厚な総門(切妻造、本瓦葺、薬医門)を入ると、100mほどの参道があり、「紅葉の馬場」と呼ばれている。紅葉の美しさは嵯峨随一として知られているが、新緑の鮮やかさも、また素晴らしい。正面の白壁の内側に本堂があり、さらにその奥に、小倉山の稜線がみえる。










本堂、永正18年(1521)再建当初の本堂は応仁の乱で焼失したが、室町時代後期の公家三条西実隆(1455~1537)によって再建された。
本堂には、向かって右に釈迦如来立像(遣送(けんそう)の釈迦)、向かって左に阿弥陀如来立像(来迎の阿弥陀)が祀られている。

本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀る両像共に、像高1m弱、鎌倉時代。釈迦如来立像は、右手を上げ、左手を下げる施無畏印、予願印を結ぶ。納衣を通肩に着け、蓮弁形光背を背に蓮華座に立つ。  阿弥陀如来立像は来迎印を結ぶが、通常の来迎印とは両腕の構えが逆になっている(釈迦如来と左右対称形になっている)また、通常の来迎印は親指と他の指で輪をつくる印相であるが、右手の指を5本ともまっすぐ伸ばしている珍しい印相である。 衣文は両像それぞれに違えている。





勅使門後奈良天皇勅額






勅使門(唐門)は永正18年(1521)三条西実隆によって再建された。
本堂に掲げられた後奈良天皇勅額はこの時下賜されたものである。
明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、御所の仏事を司どり、公家方との交流盛んであったとのこと。
現在も旧摂関家や角倉家などの菩提寺となっている由。













双子のように並んで立つ釈迦と阿弥陀の会話をそっと聞いてみたい ‼


釈迦 娑婆の事は私に任せ、浄土のことはそちらに任せせるよ

阿弥陀 承知した、浄土の事は全て私に任せなさい

それとも

釈迦 「鎌倉期以降1200年余立ち通しで少し疲れた、台座に座りたいものだ」

阿弥陀 「疲れましたね、其々交代で座りましょうか」


とでも言っているでしょうか、  筆者も、かなり疲れたが、想像を逞しくして次の目的清涼寺へと足を運ぶ。




五台山清涼寺
清涼寺・仁王門








嵯峨の釈迦堂の呼び名で親しまれている
浄土宗の大寺である。本尊は釈迦如来、開基は奈良東大寺の僧奝然(938~1016)、開山が奝然の弟子盛算(じょうさん)とされている。

この地は、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる)(822~895)の別荘棲霞観あった、融は寛平7年(895)に没したが、翌年融の子息が阿弥陀堂を建て、阿弥陀三尊像を造り、安置して、この阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後、天慶8年(945)重明親王妃により新堂が建てられ釈迦如来像を安置した、これが現在の清涼寺に発展し、嵯峨の釈迦堂と呼ばれる所以である。(参考:Wikipedia)







本尊の釈迦如来立像(像高:160㎝、中国・北宋時代、国宝)は、「三国伝来(インド~中国~日本)の釈迦像」と云われる像である。

清涼寺リ-フレットによれば(当日は否公開日のため残念ながら拝観出来ず、公開日は毎月8日)頭髪は螺髪、ではなく、縄目状で、施無畏印・予願印を結ぶ大きい手(掌)、通肩の衣の同心円状に刻まれた衣文など、通常の日本の如来像と異なる様式である。
奝然が宋に滞在中(985)に台州で造らせ、我が国へ持ち帰らせた像とされている。また、胎内からは、絹製の五臓六腑が発見され、千余年前に中国において体内の構造が分かっていた事を示す貴重な資料である。
この様式の釈迦如来立像は「清涼寺式釈迦像」と呼ばれ、模刻像は日本各地に100体近くあるとされている。

山門(仁王門) 入母屋造、本瓦葺、重層門でなかなかの威圧感がある。安永6年(1777)の建立。

本堂(釈迦堂) 単層、入母屋造、本瓦葺、梁行・桁行共に7間の壮大な構えである。元禄14年(1701)の建立。

傳大士父子像

一切経蔵
傅大士(ふだいし)(普慧)父子(普淨・普現)像
堂(江戸中期の建立)の正面に安置されている。説明書きによれば堂内には、唐紙製の明板本(彫った版木で印刷した本のこと)5,408巻の大部分が納められていて、宝輪を一回転さすと一切経を読んだことになるらしい。

※傅大士…中国、南北朝時代の在俗(出家せず、俗人の状態でいること)の仏教者、本名は傅翕(ふきゅう)。転輪蔵を創始し、後世、経蔵などに像が安置される。




尚、霊宝館には、棲霞寺本尊・阿弥陀三尊像(国宝)文殊菩薩騎獅像、普賢菩薩騎象像、釈迦十大弟子像、、四天王立像、兜跋毘沙門天立像(いずれも重文)等、平安期の仏像、他の寺宝が多数陳列されている。
 
棲霞寺・本尊の阿弥陀如来像は、どこか光源氏の面影を偲ばせるらしいと聞いたが、当日は霊宝館の公開日ではなく、拝観出来なかった。未練を残しつつ清涼寺を後にした。(特別公開日は、4月、5月、10月、11月)



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