斑鳩の里

5月後半晩春の一日、奈良の史跡「頭塔」から足を伸ばし斑鳩の里の寺を巡った。まずは法起寺から巡るべくJR法隆寺駅よりタクシ−で法起寺に向かった(JR法隆寺駅から法起寺前までのバスは運行していない)

法起寺
 
法起寺遠望(県道9号線より)西門(入口) 


















 法起寺(生駒郡斑鳩町岡本)は聖徳宗の寺院で山号は岡本山、但し奈良時代以前に創建された寺院は山号は付いていないので後の時代に付けたものである。尚寺名は現在は〔ほうきじ〕と読むのが正式とのこと。。(以前は文献なども〔ほっきじ〕とルビを付けていた)

斑鳩の里の北東部、大和郡山線(県道9号線)沿いの田園で古代のロマンを漂わせながら建っているいる聖徳太子七寺の一つである。
創建は
「法起寺三重塔露盤銘」によれば推古30年(622)聖徳太子は臨終に際し長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を寺に改めることを云い残した。
その後、舒明10年(638)福亮(ふくりょう)僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685)に恵施(えせ)僧正が塔の建立を発願し慶雲3年(706)に完成したという。
(参考:パンフレット)

我国最古の三重塔(白鳳時代)
当寺は奈良時代には寺勢盛んであったらしいが、平安時代には法隆寺の傘下に入り、寺運盛衰を繰り返し、江戸初期には三重塔を残すのみとなった。
その荒廃を憂い、寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子により三重塔の修復、講堂を再建した。また、江戸後期には聖天堂を建立し現在の寺観となった。
 昭和25年法隆寺が聖徳宗の開宗に伴い当寺も法相宗から聖徳宗に改宗した。
(参考:パンフレット) 

 
三重塔(国宝)
建立時期は慶雲3年(706)の完成とされている。方三間・(但し三層目は方二間)、塔高24m、本瓦葺、基壇の上に建つ。現存する我国最古の三重塔であり、また、裳階付の三重塔である薬師寺東塔を除けば我国最大の三重塔とされている。
二層部は卍崩しの高欄である。 雲肘木が真っ白な壁に際立って、この塔の古さを感じさせない。
 
法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔、とともに斑鳩の3塔と呼ばれている。

初層の雲肘木



















十一面観音立像(国重文) (撮影禁止のため写真ありません)収蔵庫に安置されている。像高350p、一木造、彩色、漆箔、貞観時代。
 厳しい表情、いかり肩、厚い胸、太い腰、前面の裙の衣文に翻波式衣文と旋転文を刻み貞観時代の特徴が表れている。
 像容は、右手は掌を外に向け垂下して、左手は肘を直角に曲げ、手首を稍うちがわに曲げて、開いた蓮華と蕾の蓮華を挿した水瓶を持つ。
天衣は前面で大きく湾曲させ、腕にかけ両サイドに垂らしている。


講堂聖天堂













境内は三重塔の他に南大門(江戸初期再建の四脚門)、西門、講堂(江戸前期の再建)、聖天堂(江戸後期の建立)、収蔵庫、庫裡、鐘楼跡等の伽藍が配されており、南大門から塔、講堂が縦に並ぶ四天王寺式伽藍の様である。池は境内のほぼ中央にある。


山背大兄王墓所  
山背大兄王墓所案内版岡の原丘陵 (伝・山背大兄王の墓地)



















 法起寺を出て、法輪寺に向かうべく西方向へ歩を進め暫らくすると偶然にも道路の南側に伝・山背大兄王墓所の案内版あった。ここが上宮王家の悲劇の主人公の墓所かと、付近を歩いてみると法起寺から法輪寺に向う道の中ほどに古墳のような小ぶりの丘陵がある、どうやら此処が墓所のようだ。地元では岡の原丘陵と呼ばれている。

《山背大兄王(聖徳太子の子)は聖徳太子の死後田村皇子(舒明天皇)皇位継承争いで敗れ生駒山にのがれたが、争いを好まず生駒山を下りて斑鳩寺に入り一族と共に自害し、ここに聖徳太子の血を継ぐ上宮王家は絶える(643年)こととなる。》

また、雨が降り出した、次の目的地の法輪寺へと急ぐ。


法輪寺

法輪寺表門講堂(奥)と金堂(右) 


















 法輪寺(ほうりんじ)(生駒郡斑鳩町三井)は斑鳩の北方に位置し、法起寺の西方約0.6〜0.7Kmの所にある。土地の名をとって三井寺とも呼ばれている聖徳宗のお寺である。

 創建は飛鳥時代まで遡り、聖徳太子の子 山背大兄王が太子の病気平癒を願って山背大兄王の子 由義王(ゆぎおう)と共に建立したと伝えられている。(一説には百済の開法師、円明師、下氷新物の3人が建立したと伝える)
 昭和25年(1950)の発掘調査で、規模は法隆寺西伽藍の三分の二であることが判明し、当時は寺勢盛んであったことが窺がえるが、次第に寺勢は衰え、江戸時代初期には三重塔を残すのみとなった。
(参考:パンフレット)

法輪寺の伽藍1975年再建の三重塔 




















法輪寺の再興は享保十六年(1731)妙見堂、宝暦十年(1760)三重塔修復、宝暦十一年(1761)金堂、講堂、南大門を逐次再建、明治三十六年(1903)国宝に指定されていた三重塔の解体修理を行う。

 その後、昭和十九年(1944)三重塔が落雷により焼失、昭和五十年(1975)三重塔再建し現在の寺観となる。(この項Wikipedia参考)

伽藍形式は南大門(表門)を入ると、右手に金堂、左に三重塔、奥中央に講堂が建つ所謂法隆寺形式の伽藍配置である。


尚1975の三重塔再建は作家の幸田文らの尽力で、当時宮大工の第一人者であった西岡常一棟梁により再建されたとの由。

仏像
 (撮影禁止のため写真はありません)
講堂内に一歩入ると本尊の薬師如来坐像を始め、像高4m余の十一面観音立像など12躯の仏像が安置されており、ガラス越しではなく間近で、生で拝観でき、まさに圧倒される感がある。 仏像の詳細は「仏像紀行のサイトをご覧ください。

早くも梅雨の走りに入ったのか小雨降りやまず、
雨の中歩くのも気が重くタクシ-にて中宮寺に向かう。



中宮寺
中宮寺表門中宮寺本堂



















 法隆寺夢殿前でタクシ-を降り、中宮寺へと向かう。  中宮寺(生駒郡斑鳩町法隆寺北)は法隆寺に隣接する聖徳宗のお寺である。 聖徳太子の母親・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の願いによって創建された尼寺である。
 
 創建当初(飛鳥時代)は現在の位置より500mほど東にあったとされている。その伽藍は、昭和38年の発掘で南に塔、北に金堂を配した四天王寺式伽藍であったことが確認されたとのこと。
 
  平安時代には寺運衰退し、僅か草堂一宇に菩薩半跏像1躯だけの状態であった。 鎌倉時代に入り中興の祖・信如比丘尼によって、幾らかの復興が図られるが、往時の寺勢には比べる可くもなかった。
 その後、度々の火災に遭い法隆寺東院の子院(現在地)に避難し、創建地への再建は成らず、後伏見天皇八世皇孫尊智女王を住職に迎え(慶長七年-1602)、以来尼門跡斑鳩御所として寺観を整えたのが現在の伽藍とされている。

 飛鳥時代からの永き年月に亘り尼寺の法灯を続けている中宮寺は、大和三門跡尼寺随一としてその伝統を伝えている。
(参考:パンフレット)


仏像
(撮影禁止で写真はありません)
 本堂には、本尊・菩薩半跏思唯像(国宝) 飛鳥時代、木造、像高87p、が正面奥に安置されている。(堂内で1躯だけの仏像)
寺伝では如意輪観音とされているが、当初は弥勒菩薩として造像されたものとされている。 唇の両端を少し上にあげた頬笑み(アルカイックスマイル)はエジプトのスフィンクス、ダ・ヴィンチのモナリザと並んで「世界三微笑像」の一つと云われていて、多くの女性ファンを惹き付けている。

 
 
尚、本堂には「天寿国繍帳」(聖徳太子の死去を悼み、太子の御妃・橘大郎女が采女らに命じて造った刺繍・曼荼羅)のレプリカ(本物は奈良国立博物館に寄託、国宝)が展示され、間近で鑑賞できる。

拝観・鑑賞を終え中宮寺を後にした。



史跡と古寺巡歴のトップペ−ジへ

仏像紀行のトップペ-ジへ