室積・海商通り



御手洗湾の穏やかな風景に溶け込んでいる室積・海商通りは、古くから瀬戸内海航路の重要な港町として栄えた。江戸時代には長州藩により室積会所が置かれ、北前船の寄港地として多くの廻船問屋が軒を連ねていた。
 明治中期に入ると鉄道の開通や大型商船の就航などで、往時の港町としての役目を終え,次第に寂れていった。 しかし、現存する町屋は江戸後期から明治にかけてのものであり、今でもその面影を漂わせ、室積の歴史を学ぶ人々を受け入れている。
高札場と火の見櫓

高札場とは幕府や領主によって定められた法度や掟書などを板札に
書き目立つように高く掲げて置く場所。

 「光ふるさと郷土館」のミニガイドによれば、江戸時代1738年(元文3年)の地図には、この辻に高札場が記されているようで,この場所に復元建設されている。

火の見櫓 江戸時代、江戸の町を最初として、消火体制とともに整備されてゆき昭和に入り全国に行き渡ったとされている。
 殆どのものは上部に半鐘が設けられ、火災の早期発見と半鐘を鳴らして消防団の
招集が行われた。
対面の松と碑

姫路の書写山円教寺の開祖であり、室積・普賢寺の開山でもある性空上人が、普賢菩薩と対面した場所に松が植えられ、そのことを後世に伝えるために亀趺塔の記念碑がある。
 碑文には対面の松が、享保18年(1733)野火で焼失したため役人が植え継ぎ、村人がこの碑を建てたと刻まれている。(ふるさと郷土館・ミニガイドより)

普賢菩薩と性空上人対面のエピソード(参考:山口の伝説、要点のみ)
 
 性空上人が「法華経」に説かれている普賢菩薩の本当の姿を見たいと思い、祈願していたら夢枕に仏が立って「摂津国の江口(大阪市東淀川区)へ行けば、望みを叶えてやろう」といった。夢から覚めた覚めた上人は、早速江口に行き港のはずれを歩いていると「・・・周防なる室積の中の御手洗に風は吹かねどささら波立つ・・・」と歌う遊女の声が沖の方から聞こえてきた~略~上人は長旅をしてやっとのことで、周防の室積にたどり着いた。上人は会う人ごとに「近頃なにか変わったことはないか」と尋ねたら、年老いた漁師から「仏像らしきものが網にかかったが、また元の海に投げ込んだ」と話してくれた。上人は付近の漁師に頼み、海に網を入れたところ、一体の仏像がかかった。見るとそれは白象の背に乗った仏の木造で、普賢菩薩であった。上人は記念に一本のまつを植えた。後にこの松は「対面の松とよばれた。

光ふるさと郷土館・別館

平成11年登録有形文化財に指定された明治期の様子を残す豪荘で、調度品なども残る商人の家。
山頭火の句碑

漂泊の俳人種田山頭火は昭和8年5月14~16日室積の俳句仲間を訪ね俳句16句を残している。そのうちの一句が自然石に刻まれた句碑として海商通り「みたらい公園」に建っている。

        「わがままな旅の 雨にぬれてゆく」
峨嵋山普賢寺

創建は、一条天皇の寛弘三年(1006)と伝えられている、開祖は性空上人。本尊・普賢菩薩、臨済宗建仁寺派の寺で創建当時は天台宗であったが後に臨済宗tなり現在に至る。
 
 播州書写山円教寺の住職・性空上人は夢のお告げにより、周防室積の地に錫を止めるに至り、漁師の網にかかり海中より出現した霊像を,普賢山上大多和羅山に庵を結び安置した。後年、現在の場所に普賢寺御堂が建立され本尊として安置されている。現在の普賢寺は江戸時代初期に改築された建物である。
 江戸時代から明治の版籍奉還までは、毛利公の祈願寺であり、寺格は高かった。(普賢寺縁起より、要点のみ)
普賢寺仁王門

寛政十年(1798)の建立とされている、門の形式は入母屋造、本瓦葺、三間一戸の二重門である。
両脇に仁王像2体(阿形、吽形)が「阿吽の呼吸」を合わせて、寺院に近づく邪悪から守っている。


普賢菩薩堂

仁王門を入りまっすぐ伸びた参道の突き当りに、本尊・普賢菩薩を安置した「普賢菩薩堂」がある。
普賢菩薩堂の方位版

唐破風向拝の天井に付けられた十二支の方位版
平判官康頼の碑(向かって左から2番目)

平康頼、藤原成親、僧俊寛らは後白河法皇の意をくみ、京都・鹿ケ谷の山荘で平清盛討伐の密議を凝らしたが、多田幸綱の密告により失敗に終わる。
 清盛によって捕えられた康頼らは薩摩国鬼界ヶ島へ流刑になり、瀬戸内海を船で下る途中、室積の浦に立ち寄った時、受戒して法名を性照と改めた。
 このとき詠んだ一首
 
  「終(つい)にかく 背きはてけむ世の中を 
           とく捨てざりしことぞかなしき」


を刻んだ碑境内に建っている。
普賢寺庭園(雪舟庭園)

この山門を入り、方丈に南面した枯山水の庭園で、広さは正方形の寺割部分だけで約455㎡、周囲の緑地部分を含めると約1,177㎡の大きさになる。
 作庭は室町時代後期と考えられており、枯山水庭園の初期のもので、県内では最古の枯山水庭園である。(参考:光市教育委員会の説明)

※左の写真は普賢寺の山門である。普賢堂は普賢寺の伽藍である、間違えないように。
峨嵋山を背景に前面を池に見立てて、東南部に枯滝(三尊石)を中心に両側に組み込んだ豪華・雄大な石組は、枯山水庭園の初期の特徴を表しているとのこと。(参考:光市教育委員会の説明版)

三尊石に向かって右前の石は「鯉魚石」呼ばれ、鯉の滝登りの様子を表現しているとの由。

尚、この庭園は雪舟が作庭したとの伝承がある。
赤門

普賢寺は毛利氏の祈願寺として寺格は高く、赤門(開かずの門)はその名残とされている。

151002



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