三次の寺社探訪
【三勝寺門前通り町並み】
三次は古くから山陰~山陽を結ぶ文化・経済・交通の要所であり、その中心部は標高150mほどの三次盆地である。また、江戸時代は、広島藩の支藩・三次藩の城下町でもあり、多くの寺社や史跡、或は、うだつ、袖壁が目立つ町並みが保存されている。
この三次の町を同好の仲間と一緒に寺社を主体に探訪した。
山門 形式:薬医門 (この門、裏と表が反対とのこと?) 薬医門とは本柱が中心線より前にずれ、本柱と控え柱を結ぶ梁の中間に束(つか)を乗せ、切妻屋根を乗せた門。(棟は本柱より後方にずれる) 三勝寺の薬医門は、何となく違和感を感じるが、裏と表が反対になっているいるとの由、その所為か。 |
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本堂 様式(正面からの目視):1軒(ひとのき)の平行垂木、向拝虹梁の中備に蟇股を使用した和様建築。 屋根の形状:宝形造。 三勝寺は浄土宗の寺院で山号を吉祥山と号し、寺号の三勝寺は松尾長門守三勝(旗返城の城主)の諱を寺号とした。尚、開基は満誉。 天文年間(1532~1555)に三勝が一族の菩提樹として東酒屋村(現・三次市東酒屋)に建立したのが始まりとされる。その後、寛永年間(1624~1644)に初代三次浅野藩主浅野長治が現在地に移転。宝暦3年(1754)本堂、宝物等全焼。明治12年(1879)本堂、庫裡を再建、現在にいたる。(三勝寺より配布の資料要約) |
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本尊:阿弥陀如来(三尊形式) 造像時期・・・不明なるも、江戸末期~明治初頭か?(漆箔は後補?) 造像方法・・・三尊共に寄木造と推定。 主尊(中央)・阿弥陀如来立像、左脇侍(向かって右)・勢至菩薩、右脇侍(向かって左)聖観音菩薩を配したものを阿弥陀三尊という。(『観無量寿経』に基づいているとされている) 像容、他 阿弥陀如来立像・・・漆箔像、挙身光の光背を背に、下品上生の印を結び、蓮華座に立つ。 勢至菩薩立像・・・漆箔像、頭光の光背で、合掌印を結び、蓮華座に立つ。 聖観音菩薩・・・漆箔像、頭光の光背、腹前に両手で鉢(欠失)を持っていたと思われる、蓮華座に立つ。 |
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銅鍾(県重文) 仕様:高さ87.5㎝、口径49.5㎝ 時代:鎌倉末期(永和2年 -1376-) この梵鐘には二つの銘文が刻まれている。最初は承和2年(1376)に播磨国永良荘(現・兵庫県神崎郡市川町北西部)宝華山護聖禅寺の為に鋳造されたもので、更に追銘によると長享元年(1487)に周防国守護大内正弘が周防国大島郡三浦本荘(現・山口県大島郡大島町)の志駄岸八幡宮に寄進している。その後いかなる経緯でもたらされたか仔細不明なるも、一説によれば、戦国時代末に比熊山城(三次市上里にあった山城・・・比叡尾山城より拠点を移した三吉氏の居城)で城主三吉氏が場内で使用していたものを江戸時代三次浅野藩初代藩主浅野長治公が三勝寺に寄進したものとされている。 (三勝寺門前の説明文より) 陸(周防)から海を渡り島((大島)を経て内陸(三次)へと流転の鐘、今は広島県の重要文化財である。 |
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木造釈迦如来坐像(三次市指定重文)本堂に安置 時代:鎌倉後期? 法量:像高89㎝、膝張70㎝ 様式:寄木造、漆箔、玉眼、 像容:肉髻珠、百毫、三道を表す。稍々面長で少し盛り上がった肉髻(貞観時代、藤原時代ほどではないが)、深く、力強く刻まれた衣文線は鎌倉時代の名残を表す。 胸前で結んだ合掌印は???。通常、如来像は合掌印を結ばないとされている。 【筆者の愚考】:言うまでもなく仏教は仏陀(釈迦)の教えである。紀元前6世紀ごろインドで生まれた釈迦(実在した)を開祖とする宗教である。言い換えれば、釈迦は仏教の教祖で、全ての宗派の大元締めである。仏教の合掌とは、相手への尊敬や敬意をあらわすもの、とされている。だとすれば、釈迦が合掌するのは、釈迦が釈迦自身を敬い、尊敬することになるのでは?、だから釈迦(如来)の印相に合掌印はないものと思っていたが??? |
照林坊 (浄土真宗)
照林坊の開山は、鎌倉初期の建暦2年(1212)建立とされており意外と古い歴史を繋いでいる。その開基は明光上人(生没年不詳、浄土真宗の僧、親鸞の高弟で六老僧の一人)とされていて、当初は山南の庄(現・福山市沼隈町)に照林坊を建立。その後、幾多の歳月と拠点を経て、慶長7年(1602)現在地・三好町に移転し、現在に至る。(参考:案内板要約)
山門(登録有形文化財)
寛文五年(1665)の建立、照林坊の建築物で最古と云われている。
様式:木造銅板葺、一間一戸正面・背面軒唐破風付四脚門。
山門の組物
組物は支輪付の出組、二軒、繁棰、妻虹梁、大瓶束、格天井が表されている。
繰形(実用的に関係ない表現・飾り)は複雑で手が込んでいる。
本堂外陣の格子天井と欄間の彫刻
作者などの詳細不明。
格子に嵌められた花絵は見事で、まさに花天井である。
欄間の彫刻は龍と飛天が彫られていた。
渡り廊下(登録有形文化財)
木造平屋建、桟瓦葺、建造面積60㎡、建造時期江戸時代。
本堂と庫裡を連絡している東西の廊下。
桁行21m、梁間2.9m、化粧屋根、南北に中央で間仕切り、複廊となっている。複廊の仕切りに花頭窓を穿ち、寺格の高さを窺わせる。(参考:文化遺産オンラインデータベース)
知波夜比古神社(ちはやひこじんじゃ)(高杉城址)拝殿
向拝は地垂木、飛檐垂木の二軒。
斗栱の細工:斗繰りの曲線は穏やか、肘木下部は角があるものの端は緩やかな曲線であり、全体的にには多少稚拙と思われるが和様である。(神社建築故に当然か)
中備は蟇股。
向拝虹梁の木鼻は象鼻である
本殿(県重文)
主祭神:日子穂々出見尊(ひこほほでみのみこと)
創建は不明なるも、延喜式にその名がある。
天文22年(1553)毛利元就による攻椋高杉城の落城と共に社殿焼失
毛利元就により、弘治2年(1556)再建。
社伝には、昔から高杉城の内側にあったと記されている由、現在も三方に堀跡が残っているとのこと。
(参考:当日配布資料、Wikipedia)
平行垂木、木鼻(この動物は?)、軒支輪、海老虹梁など、神社建築本殿軒下の詳細を外から一見できる。狛犬吽形
巨大な頭の狛犬、横を向き、ギョロ目でユーモラスな姿である。
作者(石工)の意図はなんだろう。
狛犬阿形:吽形と同様大きい頭で口に玉を咥え、大木の根元に鎮座している。
三次はうだつがよく似合う街と云われているようであるが、実際に歩いてみると、うだつよりも袖壁の方が多い街であった。しかし、三次藩の城下町だあっただけにしっとりと落ち着いた町並みだあった。 191208
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