壬生寺
創建以来千年を超える古刹とされている律宗壬生寺は、壬生狂言や新選組ゆかりの寺として名高いが、開基以来たび重なる火災で寺の古い記録は残されていない。壬生寺が文献上に見えるのは『百錬抄』が初見と言われている(『百錬抄』とは。鎌倉時代末期に成立した通史で、著者不明なるも鎌倉後期の公家と考えられている…百科事典マイペディアより)
江戸時代に刊行された『壬生寺縁起』によれば、平安中期の正暦2年(991)に僧快賢(三井寺の僧)によって創建されたとされている、鎌倉中期の火災で伽藍悉く焼失せるも、本堂を始め阿弥陀堂、釈迦堂、宝塔、大門などを再興。その後も天明の大火(1788)などで諸伽藍焼失し、近代に入り、昭和37年(1962)放火により本堂と共に多くの貴重な文化財が焼失。斯かる如く焼失と再興の繰り返しの歴史であった。(参考:壬生寺年表)
壬生狂言や新選組ゆかりの寺としてよく知られた寺名であるが、応仁の乱などで京都の大半が焼けた。特にこの壬生寺は、昭和時代の本堂焼失(放火)など、たび重なる不運で伽藍の殆どは新しくなっており、また、現在境内には老人ホーム、保育園なども建てられており、今の境内から往時の寺容を窺うことは困難である。161201
壬生寺の正門
寛政11年(1799)の再建(薬医門)、天明の大火により焼失したものの再建と思われる。門前のある寺号の標柱はアルミ鋳物製である。本堂
昭和37年(1962)に本堂を全焼(放火)し、本尊地蔵菩薩立像ほか多くの寺宝を失う。
昭和45年(1970)本尊延命地蔵立像を律宗本山唐招提寺より移し、落慶法要を行った。(本堂内の拝観は事前予約が必要)阿弥陀堂
平成14年(2002)の再建、(木造・RC造、地上1階、地下1階)阿弥陀三尊(阿弥陀如来、聖観音、勢至菩薩)が安置されている(堂内撮影禁止の為写真ありません)地下は壬生寺歴史資料室になっている.
資料室には、薬師如来坐像(藤原時代)、十一面観音立像(藤原時代)、地蔵菩薩立像(貞観時代)ほか数体の仏像と壬生狂言面、及び古文書などが展示されていた。(撮影禁止のため写真ありません)近藤勇胸像(新選組局長)
阿弥陀堂裏側にある壬生塚の一番奥に建てられている。この胸像は俳優の故・上田吉二郎氏が発起人となって昭和46年に建立されたもの。(説明版より)
新選組は文久3年(1863)壬生の地で結成された。現在でもその屯所跡が正門前の坊城通りに残っている。
芹沢鴨(初代局長)と平山五郎(副長)の墓
文久3年(1863)9月16日(18日説あり)芹沢鴨は平山五郎と共に壬生の屯所(八木家)で泥酔し就眠中に暗殺された。(暗殺者は諸説あるが『新選組始末記』などでは、土方他3名の隊士とされている)
この壬生塚に祀られている隊士は、近藤勇を含め11名で、墓碑は新選組やその遺族によって建てられたものである。(現地説明版の一部))壬生官務家墓塔
壬生家とは本姓小槻氏、平安時代以降太政官弁官局の「史」以下の官人を統括し宮中の庶務を掌握する官務を世襲。鎌倉初期に壬生、大宮の2家に分かれ、大宮家は天文20年(1551)に断絶。(ブリタニカより)
※「史(ふみと)」…古代の姓(かばね)の一つで、記録を司る官にあった文筆や計算の技能をもって朝廷に仕えた。(ニッポニカより)
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