川原寺跡




                         【上記復元図は現地パネルより】   

飛鳥時代には、飛鳥寺、薬師寺や大安寺と並ぶ大寺であったとされているが、創建や発願者などまったく分かっていない謎の寺である。平城京遷都で飛鳥寺、薬師寺、大安寺の3大寺はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は飛鳥の地にとどまったという。
 発願者は不明なるも、この地には斉明天皇(37代)の宮があったといわれている、その宮跡に造営されたとすれば、天智天皇(38代)か天武天皇(40代)の説もある。
 
発掘調査(1957~1959)で南大門、中門、塔、西金堂、講堂、回廊などの伽藍遺構が見つかり、法隆寺や薬師寺と異なる1塔2金堂の独特な伽藍配置(川原寺式)であることが判明した。発掘調査による伽藍遺構や出土瓦などから7世紀中ごろの創建という説もある。

鎌倉時代初期に炎上(九条兼実の日記『玉葉』に記載)し、一度再興されるが室町時代末期に再び焼失し、以後本格的に再建されることなく衰退した。

現在は伽藍の一部が復元整備され当時の面影を偲ぶことができる。また、かっての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ弘福寺(ぐふくじ)(真言宗豊山派)がある。

中門跡と回廊跡

中門は東西14m、南北10mの堂々たる規模であった。


河原寺の寺域は南北330m、東西200mであり、飛鳥寺と同程度の寺域があったといわれている。
塔基壇跡

規模は1辺約12m、高さ1.5mである。

創建時の塔は五重塔であったが、鎌倉時代の再建で三重塔に変更されたとされている。
南大門跡の礎石
河原寺創建時伽藍配置図

「河原寺式」と呼ばれる独特の伽藍配置である。南大門~中門から入ると、右側に塔、左に西金堂、正面に中金堂を配する「1塔2金堂」式の配置となっている。(西金堂は南向きではなく、塔と向かい合っていたとのこと)

僧房が講堂を取り囲むように3面に建てられているのは、僧房の古い事例とのこと。
【図は現地パネルより
中金堂跡付近にかっての河原寺の法灯を継ぐ弘福寺がある。この弘福寺は江戸時代中期に建てられたものである。

本堂と大師堂だけの小規模な寺であるが、本堂には重要文化財に指定されている四天王のうちの持国天立像と多聞天立像が安置されている。いずれも一木造で像高190㎝前後の堂々たる体躯の貞観仏である。


隣接する弘福寺の食事処「花つばき」でゆっくり食事をしながら飛鳥の地を臨み、ロマンを味わうことが出来る。
広大な川原寺敷地の南西角にある庚申塚。

140425




史跡探訪目次に戻る