海龍王寺(隅寺)
今にも小雨が降り出しそうなどんよりとした空の下、僧玄肪(「藤原広嗣の乱」で吉備真備と共に一方の主役)が開基とされている海龍王寺を訪れた。
山門は切妻造、本瓦葺、左右本柱の前後に控柱を持つ四脚門で、室町時代の建立である。平城京の東側を南北に走る路に面して建っている。その山門の両側に連なる築地塀は、表面の化粧塗りが全て剥れ版築層が現れ、なかなか趣のある塀となっている。
海龍王寺(奈良市法華寺町)は平城京の北東に位置する真言律宗の寺院である。縁起(パンフレット)では、飛鳥時代に毘沙門天を祀った寺院がこの場所にあったため、藤原不比等の邸宅造営の際も取り壊されることなく、屋敷内にそのまま残った。 そして光明皇后の発願により、天平三年(731)新たに堂舎を建立し隅寺(海龍王寺)と名付けられたとされている。
天平六年(734)玄肪が唐からの帰国途中暴風雨に襲われた際、海龍王経を唱え、多くの経典と共に救われたという。玄肪はその功績によって僧正に任ぜられ初代住職にとなり、海龍王経を用いて遣唐使の渡海安全を祈願したことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜った。(リ-フレット要約)
長い歴史の中で、幾多の盛衰を繰り返してきたが、特に明治以降荒廃が進み、昭和に入り漸く堂宇の修理、境内の整備が行われたという。
現在の本堂は、奈良時代に建っていた中金堂の場所に建てられていて、寛文六年(1666)の再建で桁行5間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺である。江戸時代の建物であるが、軒が深く、古風を備えている。
十一面観音立像(国重文)鎌倉時代、像高94㎝、寄木造、が本堂内に安置されている。頭上には、天冠台を付け、正面に阿弥陀の化仏、頂上仏面と10体の化仏を頂く。裙を穿き、条帛、天衣を着けて、身には頸飾、瓔珞、臂釧、腕釧を付け、左手は開いた蓮華と蕾の蓮華を挿した水瓶を持ち、右手は垂下している。頭光は放射光光背、台座は魚鱗葺蓮華座であり、まさにフル装備の十一面観音である。
裙の文様は切金で、衣紋の流れは複雑であり、写実性に富んでいる。
西金堂 天平3年((731)の建立、その後、天平時代に修理、鎌倉時代に再び大修理、昭和40年(1965)に解体修理、同42年(1967)完成、現在に至る。桁行3間、梁間2間、切妻造、本瓦葺きの比較的小規模な仏堂である。堂内に五重小塔(国宝)が保管されている。
五重小塔(国宝) 西金堂内に安置されている。塔高4.01m(相輪を含む)相輪を除けば2.85mの小さい五重塔である。8世紀前半の様式を備えていて、奈良時代の建築様式を知る上で貴重であるとのこと。(参考:Wikipedja)
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