可部・亀山地区史跡
「可部」なる地名の由来を調べてみた。
諸説あるようで、その一つに平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』に安芸郡内の郷名として10の郷名があり、その中に「漢辦」なる郷あり、この「漢辦」が可部町・亀山地区といわれている。尚、「漢辦」についてはよく分からない。
この1,000年余の歴史を背負った地区の「両延神社」を始め「筒瀬八幡神社」「起き上がり観音」「鉄灯篭」他の史跡を落合郷土史研究会の仲間と共に、現地案内者4名の方々の案内で巡った。
(写真はころげ観音からの眺望)
【両延神社】
鎮座年代は不明なるも、古文書によれば、宝亀元年(770)光仁天皇の勅命で、安芸国河辺庄大毛寺村に神領三百四貫を許されたとあるから、凡そ1200余年前から鎮座していたらしい。その後、建久元年(1190)武田氏が宇佐八幡宮の分霊を下四日市村に勧請した。5年後の建久5年(1194)、その八幡宮を現在地に移し、現在に至っているとのこと。
旧称、白石八幡宮と呼ばれ、通称「西宮」と呼ばれていた。(東宮は存在しないとのこと)拝殿・本殿に至る石段は、上方より七(70)五(50)三(30)の3区分に分かれており、総数150段で即ち七,五三の由。
高齢者は上がり、下りに相当の覚悟が必要。
階段は左側通行が多いようです、〝左の狛犬(吽)が「歯を食いしばってお上がり」〟〝右の狛犬(阿)は「お疲れさん」〟
狛犬は参拝者も守護している。石の鳥居 立て札によれば、正徳二年(1712)可部庄氏子中により寄進されたもの。 末田重邨碑 両延神社境内
末田重邨(1822-1869)儒学者。名は廉、字は子温、通称直馬、重邨と号した。高宮郡大毛寺村で両延八幡神社祠官泰船(やすふね) の子として生まれる。25歳で豊後国日田の咸宜園(かんぎえん)に遊学都講(とこう)となる。1863年帰郷し、私塾三亦舎(さんえきしゃ)を開き教育活動を続けた。(両延神社パンフ要点抜粋)
祠官・・・社務を司る人。神主
都講・・・塾生の頭。塾頭
【筒瀬八幡神社】
両岸に迫る山の谷間を大きく蛇行しながら流れる太田川、安佐北大橋を過ぎた辺り、右岸のこんもりした社叢に包まれて建っている。
社叢は広島市の天然記念物となっており、アラカシ、タブノキ等の常緑広葉樹を中心になっている。中国地方の川岸の礫質沖積地に発達する典型的な森林植生である。(現地・立て札より)三間社流造の本殿は、市重文になっている。
明和五年(1768)の建立で、江戸中期の優れた様式を今日に伝えている。
左右、正面の縁を支える三手先の組物はこの建物の特徴である。(参考:現地立て札)おき上がり観音 由来
いつの頃からか、太田川の流れを利用して生活をしてきたこの地の人々は、〝今井田観音谷(対岸の山腹)の「ころげ観音」の分身が水中に沈んでいる〟という言い伝えを信じてきた。 平成3年3月、水中に大きな人面岩が発見され、9月に引き上げられ、現在地に安置されたとのこと。
地元古老の語り草に、〝神宮寺の僧が刻んだ仏像が洪水で流れて水中に沈み、残された台座が今井田の「ころげ観音」ではないか?〟とのことである(参考:当日の配布資料の要点)。
「ころげ観音」に対し「おきあがり観音」と名付けたものか。
【ころげ観音】
【ふたたびの宮】 【杉薬師】
太田川左岸「筒瀬八幡神社」の対岸辺りに、「ころげ観音」への道しるべあり。2~3分の所に平坦地あり、祠に安置されている。 現地の説明版によれば、「去る年の大地震で転げ落ちた観音で、弘法大師の作である。螺山(になやま)の中腹に安置されていたものが転げ落ち、現在地に留ったものであろう。
昭和44年(1969)調査の際、埋もれた部分に観音像が確認され祠が建てられた」とある。
現在でも毎年3月8日には近郊の人々によって祭礼が行われているとのこと。
ふたたびの宮(伊勢社)
現在の社は、元の位置から数10m移転している由。祭神は天照大神、豊受大神。
長井地区の氏神として信仰されていいるが、現在は長井地区の自治会が管理しているとのこと。
平成23年、可部線(可部駅以西)の復活を願って「ふたたびの宮」と称したとのことである。
氏神様も人間社会のご都合で名前を変えられたりして聊か大変であるが、氏神は地域の守り神だから止むを得ないか。多分苦笑して許したのであろう。
鳥居の神額、拝殿の扁額は「伊勢社」である。
医王寺 通称杉薬師は真言宗、本尊薬師如来坐像。開基は不詳。
当日配布された資料によれば、この地が広野であった頃一本の杉の木あり、ある時一夜のうちに杉の大木失せたので、里人が行ってみると、大木は数々の仏像になっていた。人々は驚いて高僧に尋ねたところ、この像は薬師如来で脇侍は観音(?)、勢至(?)、他十二神将と教えられた。とある。
この話は少しおかしなところあり、薬師の脇侍は日光、月光である、堂内で拝観すると、薬師の横に日光、月光らしき像がある。聖観音、勢至の両菩薩の像も安置されているが、これは客仏と思われる。
【明神社】 【千代の松】 【鉄灯篭】
明神社(浜の明神)
祭神 市杵島姫命。 由来 江戸初期可部の豪商立田屋が屋敷神として祀ったのが始まりと伝えられる。その後船乗りの安全を祈り厳島神社から分霊を勧請した。天保六年(1835)可部の実力者木原屋三兵衛に移転した。この頃から祭礼を行うようになった。(探訪資料より)千代の松(市指定天然記念物)
R54を車で通るたびに目にしており、一度近くで見たいと思っていたが、このたび漸く間近で見ることが出来た。この探訪を計画された幹事Hさんに多謝。
東側に長く伸びた大枝が特徴的で、美しくバランスの取れた樹形である。樹高9~10m程度であるが、樹齢は500年以上とのこと。
千代とは千年も更に千年も経った長い年月のこと、「千代の松」とは長寿の松ことか?鉄燈籠(かなどうろう)
市重文。高さ313㎝、基礎部周囲565㎝と大きくてバランスの取れた燈籠で軽快な感がある。
竿部の鋳出し銘から文化5年(1808)可部町の鋳物師三宅惣左衛門により鋳造されたもので、可部町鋳物業の歴史を今に伝える最古の遺品。
江戸時代の可部町は、出雲、石見両街道の分岐点でもあり、太田川のも面した交通の要衝であった。当時この場所は「船入堀」と呼ばれ川船の発着場であった。そして、この燈籠は常夜灯の役目を果たしており、地元では「船神さん」と崇拝されており、現在は、金毘羅大権現鉄燈籠の名で親しまれている。(参考:現地の立て看板)
江戸期後半可部町は藩内最高の生産高を誇っていたが、現在でも有数の鋳物の町である。
可部町にはこの他、福王寺、高松城址、給人原、青の両古墳群など多くの史跡、古刹あり、何時か機会あれば再度訪れたいものである。140304
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