松江市・浄音寺
十一面観音立像




浄音寺・観音堂

松江市中心の南東にある松江市大庭町に浄音寺は位置する。近くに「八雲立つ風土記の丘」があり、この辺り一帯は、奈良時代に編纂された『出雲風土記』の「くにびき神話」にでてくる意宇郡(出雲国…現・島根県東部…にかって存在した郡)の中心にあたる地である。

同寺は、かって神護山宝厳寺と称し平安時代の創建と伝わる古刹であったが、天正年間(1573~1591)伽藍焼失、寺運衰退し、神魂神社(かもすじんじゃ)(松江市大庭町)の神宮寺として覚真阿闇梨により再興され浄音寺に改称した。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、堀尾氏が松江藩に入府すると浄音寺は廃寺となった。その後真言宗の寺院として再興されたが、明治初頭の神仏分離令、廃仏毀釈運動で再び廃寺となる。その後は地域の人々により、観音堂として守られ大正11年(1922)再び再興された。

第二次大戦後の農地改革により所有する土地を失い、寺運衰退し檀家も無く、荒廃著しく無住の寺となるなど波乱万丈の歴史であったが、現在は観音堂だけが残っており、地域住民の協力のもと真言宗千手院(松江市石橋町)により管理されている。

観音堂の本尊・十一面観音立像は島根県下で最も美しい鎌倉仏といわれている。(国重文)

十一面観世音菩薩立像(国重文)。
像高:141㎝、一木造の檀像風(様)、鎌倉時代の造像。

頭上に11の小面を表し、左手に未開敷蓮華(みかいふれんげ)
(蕾の蓮華)を挿した水瓶を持つ一般的な十一面観音の像容で
あるが、本像は眼と唇(だけに彩色を施した檀像風である。
バランスの良い、美しい遊脚(遊足)立像である。
光背は無いが、奈良・法華寺の十一面観音を思わせる秀作で
ある。(造像年代は異なるが)

檀像風:本来は「白檀」で制作り、彩色をしない像が「檀像」であるが、日本では、
心材の色が黄褐色で香りがあり、白檀の特性に似ている「榧」材が多用されたので、
「榧」を用いた仏像を「檀像風(檀像様)」呼び、髪の毛、眼、唇のみ彩色を施し、他は
全て素木のまま仕上げる造像様式をいう。
遊脚(遊足)像:立像は両足を揃える形が一般的であるが、片足に体重をかけ、
他方の膝をわずかに曲げ、足を軽く前に出した形を「遊脚(遊足)と呼ぶ。
頭上には、頂上仏面を含め11面の化仏が表されている。
繊細な地毛の彫り、彩色が施された彫眼(鎌倉仏は、水晶を
嵌め込んだ玉眼が多い)、紅色に彩色された唇、人間臭い表
情は仏師の力量が並々でないことを表している。

鎌倉仏の特徴はその写実性にあるとされており、千手院住職
の説明によれば、1921年に行われた解体修理の際、「院豪」
と文永年間(1264~1274)の墨書が見つかったという。

院豪」とは、京都・三十三間堂の千体仏のうち504躯に仏師
名があり、そのうちの28躯に「院豪」の名がある。その「院豪」が
造像した像がこの十一面観音立像である。

名前から推察すれば、院派で京都七条大宮仏所の仏師と思う。
(裳)の折り返し部分の表現など仏師の円熟した技が窺える。
体側に垂下した右手は、掌紋まで表現されており、細やかな神
経の行き届いた彫りである。
台座
蓮華座は蓮肉、蓮弁、上敷茄子、返花、受座、上框、下框と
各部位は完全な状態で残っている。1921年の解体修理に
台座も修理したと思われるが、その後の行き届いた管理状況
を思わせる。

十一面観音立像は観音堂の厨子内に安置されており、通常は
施錠されている。



                      

                      浄音寺は無住の寺です、現在は松江城の北東約1kに位置する
                      真言宗千手院により管理されている。十一面観音立像の拝観
                      には、千手院に事前連絡が必要。

                      このたび拝観をお願いしたところ、酷暑のなか、千手院の名誉
                      住職が態々浄音寺まで出向いていただき、丁寧な説明をしてい
                      ただいた、深謝。
                                                        140729



                                                                          



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