光市・伊藤博文公記念公園、
伊藤博文記念公園は、生家のあった場所(光市束荷)にある。旧伊藤博文邸、伊藤公資料館、生家、産湯の井戸、伊藤公広場、銅像などが整備されていて、日本の歴史公園100選の一つである。
伊藤公資料館
初代内閣総理大臣伊藤博文公の遺品の展示と業績の
紹介をして、幕末から明治の終わりまでを学習する場と
して開設された。
建物の形態は、鉄骨造平屋建534.36㎡、外観レンガ造り
の明治風建築である。(参考:リーフレット)
内部はエントランスホーム,シアターホール、展示室、
リフレッシュコーナー、閲覧室、文化財紹介コーナー、
事務室などから成っている。
現在(11月8日まで)展示室で、明治維新150年(平成30
年)に向けて伊藤公の生涯や業績が紹介されている。
本年度は、企画の第一偏として、誕生から上京(明治2年)
までの動向が描かれていて、青少年時代の直筆手紙など
が展示されている。
旧伊藤博文邸(県指定有形文化財)
明治43年(1910)伊藤公の遠祖である淡路ヶ峠城主林淡路守通起(はやしあわじのかみみちおき)の没後300年に
あたり、林一族ならびに伊藤家を集めて法要を営むため
に建てられたものです。総工費21,291円。
伊藤公自らが基本設計を行い、完成を待っていたが、完成目前の明治43年10月中国黒竜江省ハルビン駅で狙撃
され、完成した邸宅を目にすることなくその生涯を閉じ。
建物は、ルネサンス風木造モルタルの2階建て、延べ床面積298㎡である。
平成16年2月補修工事を終え現在に至る。生家
周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・光市束荷字野尻)の百姓
林十蔵の長男として生まれ、6歳になるまでこの家で過ごした。
当時207坪(約683㎡)の敷地に母屋、納屋、土蔵などがあったが、敷地の殆どは畑として使われたので、30坪程
の粗末なものであったと伝えられている。
この生家は、一家が萩に移住した翌年の嘉永3年(1850)
暴風雨により倒壊、大正8年(1919)「伊藤公爵遺跡保存会」によって復元された。
その後、この生家も老朽化、伊藤公生誕150年にあたる
平成3年(1991)「ふるさと創生事業」の一環として、伊藤公の生家があったこの場所に移転し、復元をして現在に至る。
生家の表札
父・林十蔵は安政元年(1854)長州藩の下級武士伊藤家の
養子となる。利助(博文)も14歳で伊藤姓を名乗る
産湯の井戸
生家の裏に伊藤公が産湯に使ったとされる井戸がが残さ
れている。伊藤公の幼年時代
幼名を利助といい満6歳までここで過ごし、14歳で伊藤家
の養子となり、伊藤姓を名乗る。
子供のころの利助(博文)は近所でも評判の腕白坊主で、みんなの先頭にたって遊びまわっていたとのこと。
父の十蔵は庄屋に次ぐ地位にあったが、生活は苦しく、
母琴子は、農業のあいまに糸を紡ぎ、木綿を織って生計を立てていた。(参考:現地説明版)
伊藤博文銅像
伊藤博文は大日本帝国憲法の起草中心人物である。
初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣、及び初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任した。
旧伊藤博文邸前に建つこの像は、伊藤公が完成を見ることが出来なかった旧邸を、永く見守ってもらうべく、平成16年3月に建立されたもの。
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