法光寺・阿弥陀如来坐像



法光寺阿弥陀堂

俊乗房重源は、治承4年(1181)平重衡などによる南都焼討で焼失した東大寺再建の為、文治2年(1186)大勧進職の命を受け、周防国に下向。(周防国:山口県の東南半分、国府は現在の防府市国衙に置かれた)
 佐波川上流・徳地の杣山からの用材切り出しの拠点として徳地に堂宇建立し、蓮台山安養寺(現・法光寺)と号した。阿弥陀堂には、阿弥陀三尊、不動明王、毘沙門天、重源坐像(自作とされている)が安置されている。

安養寺縁起には、境内に七房ありとされ、往時は寺勢盛んであったらしい。その後、歳月は経過し、東大寺末派の住僧途絶え、伽藍、七房は衰微した、元亀年間(1570~1572)山口市瑠璃光寺11世華翁圭岳和尚により再興、曹洞宗第一世となり瑠璃光寺末寺となった。(参考:法光寺リーフレット)

天保4年(1833)本堂再建、明治3年(1870)廃仏毀釈の際、寺号を法光寺と改め、山号はそのまま蓮台山と称した。平成17年(2005)新本堂建立。

阿弥陀堂に掲げられている「安養寺阿弥陀堂入仏記」には「重源自ラ阿弥陀如来、観音、勢至ノ三尊ヲ彫刻シ当寺ニ安置ス、文治二年丙午歳四月九日入仏開眼の供養を営む・・・・・後略・・・・・干時文治三年丁未十一月二十八日 俊乗房重源記誌」とある。

阿弥陀如来坐像

鎌倉時代初期の作、像高約130㎝、一木造、漆箔仕上げ,
眼を彫眼とし、ふっくらとした丸顔で、頭部は切り込み螺髪
としている。
納衣を偏袒右肩(右肩は納衣ではなく覆肩衣)に着け、上品下生の来迎印を結ぶ。

衣文は流麗でよく整理され藤原時代の様相である。深く、
力強く刻まれており鎌倉時代の様相である。(藤原時代~
鎌倉時代への過渡期の像)

本像は、東大寺南大門・仁王像の用材の年輪パターンと同じであることが科学的に証明されているとのこと、謂わば兄弟像である。


菩薩立像(勢至菩薩立像?)

鎌倉時代初期の作
像高142㎝、一木造、漆箔仕上げ。

本像の像容からは、尊名の確定は困難であるが、阿弥陀如来の脇侍として造られたものであれば、勢至菩薩と思わ
れる。(勢至菩薩は単独の像として造られることはなく、大多数は阿弥陀三尊像の脇侍として造られる)

阿弥陀の脇侍として造られた像であれば、右手は蓮華を持っていた?、左手は蓮華の茎に添えられた形と思う。

一般的な勢至菩薩の姿は、聖観音に似ているが、聖観音は宝冠に阿弥陀の化仏を付けている、勢至菩薩は水瓶を付けている。また、手は合掌するものが多いが、右手に蓮華を持つものもある。

本像は摩滅の為、阿弥陀の化仏か水瓶か判別困難。
毘沙門天立像(尊名は法光寺に従った)

鎌倉時代の作188㎝、一木造、彩色像(顔面、長袂衣に
彩色の白土下地が残る)。
頭部は重髻にして、天冠台の下に自髪を表す。目を見開き
眉を寄せる。
肩甲、胸甲、腹甲、腰甲を着け、裾に花弁の飾を付け、脛甲、沓を履き邪鬼を踏む。
甲冑の下に長袂衣を着け、袂先を結び、裙は後ろに大きく
垂れさせる。
量感豊かな像であり、一見貞観仏を思わせる。




阿弥陀堂には上記の他に、不動明王立像(鎌倉初期、187㎝、一木造)、十一面観音立像(鎌倉中期、103㎝、一木造)が安置されており、いずれも県重文指定になっている。 160621



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