保井田薬師堂
      薬師如来坐像




















八幡小学校南側の小高い丘の上に「お薬師さん」として地区の人々に慕われている保井田薬師堂(広島市佐伯区八幡地区保井田)がある。薬師堂は、正楽寺(現・無住)と称し、本尊は薬師如来坐像である。

由来と伝説 天平3年(731)行基菩薩が巡錫の折、根元が光る杉の大木で千手観音を彫み極楽寺(廿日市市原)の本尊とした。その余木で薬師如来を彫み、保井田の薬師堂の祀ったとされる。大同年間(」806~809)に空海がこの地に来て、開眼供養を営み日光菩薩、月光菩薩を脇侍として祀り、正楽寺と名付けたといわれている。
 
 その後歳月を経て、堂宇の破損著しい頃、一人の住民が盲目の児を抱き如来に詣でて、雨露を凌ぐ為と己が笠を如来にかけて我が家に帰ってみると、児の目は忽ちひらいた。人々は驚き、如来の功徳であると感謝して荒れた堂宇を整備再建したと伝えられている。
 古来、諸病平癒、縁結びの効験あらたかと言われ、縁日には縁日(2月11日)には、近隣からの参詣人も多数あり、地域の人々に親しまれ信仰を集めている。

本尊薬師如来坐像 像高大凡100㎝余、寄木造。室町時代以降の作。螺髪は大粒で植込み式とし、目は彫眼で、瞳は墨入である。
納衣を通肩に着け、右手は施無畏印を結び、左手は与願印で薬壺を持つ。

一般的に、室町時代以降の仏像彫刻(肖像彫刻、頂相彫刻、能面を除く)は時代の独自性に乏しく、藤原時代、鎌倉時代の模倣(全体、あるいは部分的)が多くみられる。
独自性が乏しい中にも、多少ではあるが時代の傾向を表すものは、上瞼の線が垂れ、ふくらみが薄いものが多く、顔は面長で鼻は多少長い。唇は顔に比して小ぶりである。
納衣は全体的に、厚ぼったく重い感じである。
胴は短く、膝に食い込む感じのものがみられる。
                                                                       140116





新・仏像紀行に戻る