沼田川沿いに開けた本郷地区は、縄文、弥生時代の遺跡の多い地区である。また、平安時代には沼田氏の氏寺である楽音寺を中心に栄えた郷である。
この度は、その楽音寺の末寺である真言宗の古刹東禅寺を訪れ、四天王立像(4躯)及び、十一面観音立像を拝観させて頂いた。
東禅寺は旧名を蟇沼寺と称し、奈良時代行基が建立したと伝えられている。鎌倉時代から南北朝時代にかけて、沼田小早川氏の氏寺として広大な境内に多くの伽藍を有する大寺であった。しかし、雷火により伽藍焼失し、僅かに本堂を残すのみとなった。現在は、本堂と庫裏が建っている。(三原市本郷町大字南方89)
四天王は、古代インドで方位の神として信仰されていたが、仏教に取り入れられて須弥山に住む帝釈天に仕え、四方を護る護法神となった。さらに須弥壇(須弥山の縮図)とされている)の中央に安置される如来、菩薩の四方を護る護法神となった。
各々の役割は、@持国天・東方の守護神で乾闥婆,毘舎遮を眷属として従える、国を支える。仏堂内部では、通常は、本尊の向って右手前に安置される。A増長天・南方の守護神、鳩槃荼、薜茘多を従える、五穀豊穣を司る。仏堂内部では、通常は、本尊の向って左手前に安置される。B広目天・西方の守護神、龍属を従える、仏心及び悪の処罰。仏堂内部では、通常本尊の向って左後ろに安置される。C多聞天・北方の守護神。夜叉、羅刹を従える、福と護法の力を持つ。仏堂内部では、本尊の向って右後ろに安置される。毘沙門天と同一。最強の四天王。(参考:Wikipedia)
四天王の持物は様々である、剣、鉾、戟、巻子等を持つが、広目天は筆、多聞天は塔を持つ場合が多い。日本では甲冑を着けた唐の武将姿で表されることが多い。
当寺の四天王は、(県重文)いずれも鎌倉後期の作で像高170p前後の等身大の立像である。4躯とも寄木造、玉眼嵌め込みで、唐風の甲冑を着け邪鬼を踏む.4躯共バランスの良い像であるが、各像共に、腹獅噛の彫りは浅く、この時代の特徴である写実性と力強さに稍に欠けるように思う。また4躯とも後補による持物の彩色に稚拙さが目立つ。
像容は甲冑をつけ、唐の武将姿で表されている。
・持国天…右手で剣を振りかざし、左手に独鈷杵持つ。左足で邪鬼の頭部を踏む。
・増長天…右手を腰に当て、左手に三叉戟を持ち、左足で邪鬼の頭部を踏む。
・広目天…右手に筆、左手に巻子を持ち、右足で邪鬼の頭部を踏む。
・多聞天…右手に鉾、左手で塔を捧げ、右足で邪鬼の頭部を踏む。
本尊の十一面観音は特に文化財の指定にはなっていないようであるが、秘仏であり、33年に一度の御開帳と17年に一度の半開帳時に公開される。
当寺の御前立の十一面観音は通常の十一面観音と異なり、長谷寺式十一面観音と呼ばれるものである。像高約170cm、寄木造り、室町時代の作か?。
長谷寺式十一面観音とは、右手に錫杖を持つ像であるが、本像は、杖の頭部に三叉戟が付いている、これは後補時の誤りと思う。錫杖は頭部の輪形に遊環を通す形状である。
この度、同寺には、三原市の本郷支所を訪れた帰路に拝観させて頂いたもので、ご案内願った本郷町観光協会・遠茂谷副会長に感謝。
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