柳井・瑞相寺


落合郷土史研究会のやない・白壁の町並み探訪に参加して、瑞相寺を訪れた。  白壁の町並みは、藩政時代の香りが建物群のあちこちに漂っている重厚な町並みである。 瑞相寺は町並みから少し離れて、姫田川に架かる橋を渡った所にあり、総檜造りの新しい山門がある。

瑞相寺・山門(総檜造) 撮影・上原氏法輪の寺紋を付けた本堂




















 
 お寺の資料と住職の話によれば、瑞相寺(柳井市柳井津)は山号を放光山と号し,鎌倉時代初期の正治元年(1199)、性真上人により開基され、永正元年(1504)宇治・平等院より法誉祐西上人を迎え瑞相寺が開山された浄土宗のお寺です。(姫田川に架かる橋を渡るとすぐに総檜造りの新しい山門がある)また、総本山知恩院77世日野霊瑞大僧正、78世野上運海大僧正の出られたお寺とのこと。

延宝八年(1680)十王像10躯の造像と十王堂が建立(現在の鐘楼西側)されたが、大正13年(1924)9月の台風で十王堂が倒壊し、中に奉られていた十王像10躯すべてが破損した。(住職の話)

貴重な文化遺産を後世に伝えるべく、平成5年(1993)〜15年(2003)にかけて破壊した十王像毎年1躯づつ補修、地蔵菩薩立像、奪衣婆坐像を含む12躯が完成、現在の十王堂に安置されている。

十王像奪衣婆坐像




















地蔵菩薩立像


十王像
 新しく建立された十王堂の正面に閻魔王(像高約100p)を中央に左右に亡者を裁くそれぞれの王(像高約80p)が安置される。いずれも檜の寄木造で鮮やかな彩色像である。像容は、いずれも中国風の道服を付け忿怒形で坐している。

十王は道教や仏教で、冥界にあって亡者の罪を裁く10尊である。日本では平安末期の末法思想や冥界思想とともに庶民に広く浸透した。また、「地蔵菩薩発心因縁十王経」(地蔵十王経)が作られ、三途の川や奪衣婆が登場することとなった。(参考:Wikipedia)

十王は人を裁くと同時に救うのが本来の目的ゆえにそれぞれの王には本地仏が定まっている(例えば閻魔王の本地仏は地蔵菩薩である)

奪衣婆坐像
 像高約80p、檜の寄木造、彩色像。 奪衣婆は三途川の渡し賃である6文銭を持たずに来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。剥ぎ取った衣服は老爺(懸衣翁)によって三途の川渕にある衣領樹に掛け、その重さが生前の業を表すとされ、死後の処遇が決められるとされている。(参考:Wikipedia)

地蔵菩薩立像 像高約100p、檜の寄木造、彩色像で裙の切金文様が見事である。 像容は右手に錫杖、左手に宝珠を戴く、一般的な地蔵菩薩立像である。 「十王経」では、地蔵菩薩を中心に閻魔王を始めとする冥界の世界観が形成され、十王像と共に奉られるようになったものか?。




釈迦三尊像主尊・釈迦如来坐像






















また、瑞相寺の釈迦堂には釈迦三尊像が安置されているとのことで拝観させていただいた。住職に案内されて釈迦堂に入るとそこには立派な丈六の釈迦三尊像が両脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩を従え、奉られていた。住職のお話では約330年前の造像とのことである。

主尊・釈迦如来坐像 像高240p前後?(丈六坐像)、寄木造、江戸時代。
丸顔で穏やかな表情、なだらかな肩の線、流れるような衣文線などは一見藤原後期の様相を呈するが、納衣の肌に纏わる密着感に乏しく、藤原様式を参考にした江戸期の造像か。江戸期の造像で丈六仏は数が少ないと思われ、貴重な文化財である。
 納衣を偏袒右肩に着け、施無畏印・予願印を結び、蓮華座に結跏趺坐(降魔坐)している。尚、光背は「二重円光」光背。

右脇侍(向って左)・普賢菩薩坐像左脇侍(向って右)・文殊菩薩坐像

































右脇侍(向って左)・普賢菩薩坐像
 像高100p前後、寄木造、江戸時代。普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として仕え、行を司るとされている。通常は胸前で合掌し、持物は持たないが、本像は両手で如意(孫の手の様な仏具)を持つ。
 白象上の蓮華座に半跏不坐(結跏趺坐の略式坐法、片足を他の片足の腿上に組んですわる坐法。菩薩像に多く見られるため菩薩坐とも呼ばれる)している。

左脇侍(向って右)・文殊菩薩坐像 像高100p前後、寄木造、江戸時代。文殊菩薩は普賢菩薩と共に釈迦の脇侍として仕え、知恵を司るとされている。頭上の宝冠の天冠帯を長く左右に垂らし、獅子上の蓮華座に半跏不坐して、右手に剣、左手に経巻を持つ通常の文殊菩薩の姿である。

釈迦三尊は江戸時代のものとはいえ、これだけの仏像が市の文化財にも指定されていないようである。(瑞相寺の意向か?) 十王像の補修、釈迦三尊像の状態の良さ、など住職の文化財に対する意識の表れでしょう。

(仏像写真は瑞相寺の許可を得て掲載しています)



仏像紀行トップペ−ジへ戻る