海龍王寺(隅寺

 
新装なったJR奈良駅を降り立つと昨日までの晴天とは打って変り、どんよりとした空で、今にも小雨が降り出しそうであった。

海龍王寺は、奈良時代の「藤原広嗣の乱」で吉備真備と共に一方の主役であった僧玄ムが開基の寺と聞き、平城京でも創建の古さは、一二を争う寺院であるとのことで、予てから訪れてみたいと思っていたお寺である。

海龍王寺山門山門から中門までの参道参道横の築地塀













海龍王寺
(かいりゅうおうじ)
(奈良市法華寺町)は平城京の北東に位置する真言律宗の寺院である。 縁起(パンフレット)によれば、飛鳥時代に毘沙門天を祀った寺院がこの場所に在り、藤原不比等の邸宅造営の際にも取り壊されることなく屋敷に取り込まれる形で存続した。そして光明皇后の発願により天平3年(731)新たに堂舎を建立し海龍王寺(隅寺…藤原不比等邸の東北の隅にあったので隅寺と名付けられたとのこと)としての歴史を歩むことになった。

海龍王寺は光明皇后の発願で、僧・玄ムが開基と伝えられている。 天平6年(734)玄ムが唐から帰国の途中暴風雨に襲われた際、海龍王経を唱えて持ち帰った多数の経典と共に救われたという。 玄ムはその功績により僧正に任ぜられ、初代住持になり海龍王経を用い遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜った。(パンフレットの要約) 尚、勅額(国重文)は本堂に安置されている。

長い歴史の中で幾多の盛衰を経てきたが、特に明治以降境内の荒廃が進んだ。昭和(戦後)に入り堂宇の修理、境内の整備が行われたという。

山門は室町時代の建立、左右本柱の前後に控柱を持つ四脚門、切妻造りの本瓦葺き、両側に築地塀を付けている。平城京の東側を南北に貫く路(東二坊大路)に面して建っている。両側の築地塀は寺の盛衰を物語っているようである。

十一面観世音菩薩立像本堂、江戸時代、桁行5間、梁行4間、入母屋造、本瓦葺。


















本堂
は過って奈良時代に建っていた中金堂の場所に建てられているとのことである。 寛文6年(1666)の再建(Wikipedia)。 桁行5間、梁行4間の入母屋造、本瓦葺きで、江戸時代の建物ではあるが、深い軒の出方など古風を備えている。

本堂内には十一面観世音菩薩立像(国重文)(鎌倉時代の作、像高94p)が安置されている。頭上に天冠台を付け、阿弥陀の化仏・頂上仏面と10の変化面を戴いている。 身には裙を着け条帛、天衣掛をけ、頸飾、瓔珞で飾り、手に臂釧、腕釧を付けている。左手に開いた蓮華と蕾の蓮華を挿した水瓶を持ち、右手は垂下している。頭光は放射光光背を付け、魚鱗葺蓮華座に立っている。 また、裙の文様は截金文様が主体できらびやかである。裙の複雑な衣文の流れ、或いは緒の端を結わえた皺の様子などの写実性は鎌倉彫刻を思わせる。(十一面観世音菩薩立像の写真は、海龍王寺住職の許可を得て海龍王寺発行の写真よりの転載です)

五重小塔(国宝)西金堂、堂内に国宝五重小塔が収められている西金堂(国重文)…天平3年(731)の建立。その後平安時代に修理、鎌倉時代に再び大修理、昭和40年(1965)に解体修理がなされ同42年(1967)に完成現在に至る。(立札説明板より)  桁行3間、梁行2間、切妻造、本瓦葺きの比較的小規模な仏堂である。 堂内には五重小塔(国宝)が安置されている。
 
東金堂跡、現在は基壇だけが残っている












五重小塔(国宝)
…西金堂内に安置されている。 塔高4.01m(相輪を含む)相輪を除けば2.85mの小塔。工芸品としてではなく建造物として国宝に指定されているとのこと。様式的には8世紀前半のもので遺例の少ない奈良時代の建築様式を知る上で貴重であるとのこと。(参考:Wikipedia)

東金堂…創建当時は西金堂と相対する位置に建っていたが明治の廃仏毀釈で喪失したようである。現在は、中門を入ったすぐ左側に基壇跡が残っている。

同寺はこれらの他に、舎利塔(重文)、経蔵(重文)、勅額(重文)、文殊菩薩(重文)、ほか多数の文化財が保管安置されている。

藤原不比等邸の東北の隅に取り込まれたので別名「隅寺」といわれるように奈良の寺院しては境内の狭く、堂宇の規模も小型であった。 

仏像写真の転載に快諾していただいた住職に感謝。


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