安養寺・厚母大仏


 国道191号を南下、豊浦町に入り案内の看板に従って左折、住宅地の中に安養寺がある。想像よりも随分新しい建物で、まだ木の香が残っているようである。 案内を乞うて住職にお会いしたところ、応接間に通され茶菓子の接待を受けながら住職のお話を聞くことが出来た。(感謝)

 安養寺本堂

安養寺は寡って厚母村の郷と呼ばれていた所(現・下関市豊浦町大字厚母郷)にある曹洞宗の寺院である。
 
 縁起は詳らかではないが、厚母大仏由来書と吉川住職のお話を要約すれば、桓武天皇(在位781〜806)の頃、坂上田村麿将軍が京洛(古くは京都を中国王朝の洛陽に因み京洛、洛中、洛陽などと云われた)に大寺を建立し、仏像を祀った。鎌倉時代に至り、元寇の乱勃発に際し、北浦海岸、九州唐津が戦場となる、時の幕府は、この大寺と仏像を厚母の地に移し外敵降伏、国土安穏を祈念した。
 その後、年月を経て山門の荒廃を嘆き、智門寺殿・功山玄栄誉大居士(毛利秀元の法号、長府功山寺開基)が小刹を再建した。偶々維新以来二度の祝融(火災)に遭いその伽藍を失うが、地元の信者達によって一宇が建立された。
 
 吉川住職の話では、老朽化激しく雨漏りもあり、屋根にはビニ−ルシ−トが張られていたような状態であった為、文化庁などに交渉し、近年に文化庁、山口県の補助事業として大仏殿本堂が新築された。



阿弥陀如来坐像(厚母大仏)



阿弥陀如来坐像
【国重文】(厚母の大仏、安養寺の黒仏とも呼ばれている)本堂奥の大仏殿に安置されている。藤原時代末期の作、像高8尺8寸8分(269.1p)の所謂丈六仏である。楠材の寄木造。上品下生の来迎印を結び、蓮華座に結跏趺坐(吉祥坐)している。螺髪は細かく揃っており、肩はなだらかで、衣紋の彫は浅く刻まれ、肌に密着するように薄い納衣の表現である、これらはいずれも藤原末期の様相である。
 一方、同寺の大仏由来によれば、胎内に田村将軍祷念仏の銘文が記されているとのこと。坂上田村麿(758〜811)は天平〜弘仁時代(平安初期)の武官である。(像容と胎内銘文に時代のずれがあるのは如何様に解釈すればよいのであろうか)
 像は、現在は古色仕上げになっており、台座、光背は後補であるが、山口県下では、周防大島の西長寺・阿弥陀如来坐像、山口市の玄答院・阿弥陀如来坐像などと共に有数の大作である。
尚、大仏殿には阿弥陀如来坐像の他に釈迦如来坐像(韓国仏)と地蔵菩薩坐像(子安地蔵)いずれも像高1m弱、の2躯が安置されている。(

 大仏が安置されている大仏殿は、著名な設計事務所である(株)隅研吾建築都市設計事務所(東京)による設計監理で、この地方に多くある土壁の蔵を彷彿とさせるが如く、外壁に地元の土を固めた版築ブロック1,500個を積み上げた工法が採られている。遷座は平成15年11月14日。
(参考;大仏殿説明板)
地蔵菩薩坐像(子安地蔵)大仏殿釈迦如来坐像(韓国仏)













お会いした吉川住職は、小柄であるが大変柔軟な考え方をされる一方で気骨のある禅宗の御坊さんである。門戸開放でいつでも自由に仏様に会いに来て下さいとのことである。但し、大仏殿の中に入って近くで拝観する場合は事前連絡を要す。(
大仏殿ガラス仕切りの外側からであれば自由に拝観できる)

仏像撮影、本ペ−ジへの掲載は安養寺の許可を得ています


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