霊椿山 大照院


 
JR萩駅近くの踏切を渡り、どこか土の匂いのする小路を歩く。2〜300mほど歩くと面影山の麓に、大振りで比較的新しい山門(鐘楼門)が建っている。 郷土史講座の歴史探訪に参加して萩を訪れた、ここは椿郷の大照院に向う参道である。 
 鐘楼門を回り込み境内に入ると本堂、経蔵、書院などの伽藍があり、禅宗系らしく、いずれも素朴な佇まいである。

大照院参道鐘楼門 















  霊椿山大照院(萩市大字椿)は萩藩初代藩主毛利秀就が慶安4年(1651)萩城で亡くなり、その菩提を弔うため2代藩主綱広によって建てられた臨済宗南禅寺派の寺である。初代藩主と2代以下偶数代の藩主夫妻の墓所がある。
 
 寺の説明書によれば大照院の前身は、月輪山観音寺という寺院が延暦年間(782〜805)にあった。建武のころ(1334〜1335)鎌倉建長寺の義翁和尚が再興して大椿山歓喜寺と改め、臨済宗を伝えたが、戦乱の世を経て再び荒廃した。
 
 その後、萩藩2代藩主綱広が亡父(秀就)の為に改築し、秀就の法号に因み大照院と名付けたとある。山号は大椿山大照院では「大」が重なるため霊椿山大照院としたとのこと。
 延享4年(1747)火災で全焼した。現在の伽藍は寛延3年(1750)6代藩主宗弘が再建したもの。(経蔵は宝暦5年・1755の再建)、鐘楼門は平成19年保存修理工事が完了し、平成21年6月に落慶法要と落慶式が営まれた。 尚、開山は言如円遵和尚です。

鐘楼門】国重文(写真上右)
 寛延3年(1750)再建、平成19年(2007)保存修理完了。桁行7.66m、梁間4.08m、3間1戸2重門で入母屋造、桟瓦葺である。

本堂
本堂】国重文(写真左)、本尊聖観音坐像
 寛延3年(1750)再建、桁行25.2m、梁間18.0m、一重入母屋造、錏屋根の桟瓦葺である。
 
 本尊横の控えの間には丈六の
釈迦如来坐像が安置されている。

釈迦如来坐像








 【
釈迦如来坐像】(県重文)(写真右)…像高235p、寄木造、鎌倉時代の作。
胎内に康永3年(1344)と明暦2年(1656)に修理した旨の墨書銘あるとのことである。
 本像は元萩の観音寺の本尊であったとのことであるが、随所に亘り(頭部、右肩の衣文、両膝など)後補の由、かろうじて左肩から腹部にかけての衣文が藤原末期のものか。 然し、地方における数少ない鎌倉時代の丈六仏として貴重である。




 赤童子立像書院と庭園の池
書院】国重文。(写真右)寛延3年(1750)再建、数奇屋風の端正な造りである。当書院には全国的にも珍しい赤童子立像(写真左)が安置されていて、書院南側の廊下硝子越しに拝観できる。




赤童子頭部




赤童子立像】国重文。像高81.4p、寄木造、鎌倉時代の作。
 赤童子は垂迹像の一つで、奈良・春日神社の祭神の一つである天児屋根命(あめのこやねのみこと)の天孫降臨の際の従者と云われており、春日赤童子とも呼ばれている。学僧を守る守護神ともされている。
 
 赤童子像の彫像は全国的にも大変珍しく、画像でも大和郡山市植槻神社の画像、奈良・帯解寺の画像(秘仏)などが知られている程度である。
 
 本像の像容は、頭上に宝冠を付け、腰を左に捻り、右手に杖を持ち、左手は拳を握り肘を曲げて左腰付近にあてがい、岩座に立っている。 その表情は、目を見開き、口を大きく開けて何かに向かって叫んでいるようである。
 
 岩上に立ち、風にたなびく裳裾の様子などの写実的な作風は鎌倉彫刻の特徴を表す。彫像と画像とではその像容が大きく異なるが、作例は全国的に少なく(おそらく唯一)大変珍しい像である。また、赤童子に関する文献なども少ないと聞いている。
 
 参考までに画像(植槻神社)の像容は、目を見開き、頭髪を両肩に垂らし、口は「へ」の字に閉じて、右手に杖を執り、左手で頬杖をして岩座にたっている。

 
何故この赤童子が大照院に祀られたいるのか定かではないが、私の推論は、萩市堀内に鎮座する春日神社は、由緒によれば、大同2年(807)奈良の春日神社から分霊したものと云われている。そして祭神の一つは天児屋根命である。 おそらくこの像は以前ここにあった垂迹像と思われる。毛利輝元が萩総鎮守として尊敬し社領寄進しており、万治2年(1659)2代藩主綱広が社殿修復した。この時に何らかの事情で菩提寺でもある大照院に移したのではないか。
 尚、萩春日神社は安永2年(1773)社殿炎上し、現在の社殿は7代藩主重就によって再建されたもの。
 

 
庫裏



このほか伽藍は経蔵と庫裏がある。
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経蔵】(写真左)国重文、宝暦5年(1755)再建。総塗込土蔵造り、屋根は宝形造、桟瓦葺である。正面入り口は切妻破風となっている。 
 
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庫裏】国重文、寛延3年(1750)再建。切妻造、本瓦葺、萩で一番大きい庫裏とのことです。





萩毛利家偶数代藩主夫妻の墓所 

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萩毛利家の墓所】国指定史跡。慶安4年(1651)初代藩主毛利秀就の死後、旧歓喜寺に葬られた。2代藩主よって明暦2年(1656)に完成。 墓所には初代藩主秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉熙、12代斉広の7代の藩主夫妻の墓、8人の殉死者墓、及び重臣やゆかりの深い人々が献上した603基の灯籠が立ち並んでいる。(寺のパンフ参考)広い墓所は処々に木漏れ日が差し込み、静寂な雰囲気である。







仏像の写真は大照院の了解を得て掲載しています。


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