女人高野 室生寺


一人旅。近鉄大阪線室生口大野駅に降り立つ。眼下に見える室生の里から一陣の爽やかな風が吹き上げてきた、8月下旬室生の空は、まるで秋の空のようである。  室生寺は奈良県の東端で、三重県との県境の室生山の山麓から中腹にかけて伽藍が点在する山岳寺院である。どの伽藍を拝観するにも石段上がらなければならない。特に五重塔から奥の院へと続く石段の最後の400段余は急坂となっており、聊かのためらいを感じたが、意を決して奥の院探訪を決行した。
 
            
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近鉄大阪線・室生口大野駅室生川に架かる朱塗りの太鼓橋 
 駅舎の下方にある駅前広場にバス発着場とタクシ-乗り場がある。室生寺までの所要時間は、バス、タクシ-いずれも15分程度とのこと。このたびは、バスの待ち時間の都合でタクシ-で室生寺に向かう。(バスの場合は終点の室生寺前で下車、徒歩3分) 車は濃い緑の静寂な山間を室生川の清流沿いに進む、門前の朱塗りの
太鼓橋の手前でタクシ-を降りる。



 真言宗室生寺派大本山室生寺(奈良県宇陀市室生区室生)、山号は「宀一山(べんいつさん)」と称する。(「宀一」は「室生」の略) 女人禁制であった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから別名「女人高野」と呼ばれている。但し開基は空海ではない。
 
 伝承では、天武9年(680)、役小角の創建とされているが、記録で確認できるかぎりでは、宝亀年間(770~780)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒祈願が室生の地で行われ、竜神の力で見事回復したので、興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が勅命でこの地に寺院を建てたのが室生寺とされている。造営途中で賢璟は没した(延暦12年・793)ので、弟子の修円が造営を引き継ぎ建立した。(修円・835年没) 以来室生寺は、興福寺との関係が深かったが、 江戸中期5代将軍綱吉の時(元禄十一年・1698)興福寺の法相宗から独立、真言宗寺院としてその法灯を護持している。
(参考:フリ-百科事典「Wikipedia]
表門仁王門 石標に「女人高野大本山室生寺」とある













 太鼓橋を渡るとすぐ前に表門があるがここからは入れない、表門の石標には「女人高野室生寺」とあり、上部に桂昌院の実家の家紋「繫ぎ九つ目紋」が彫られている。これは江戸中期に5代将軍綱吉の生母桂昌院の寄進で堂塔が修理されたことによるものとのことである。 
(門前で掃除をしていた職員の話)
 太鼓橋を渡り右に進み拝観受付を終え、更に右に進むと仁王門である。仁王門を入り、自然石の急坂「鎧坂」を上がれば、金堂と弥勒堂、並びに灌頂堂(本堂)が建っている。

金堂【金堂】(国宝)寄棟造、杮葺き、桁行5間・梁間4間の内陣に奥行1間の外陣(礼堂)が付いている懸造りである。 平安前期(9世紀後半)建設とのこと。(但し、礼堂部は寛文12年(1672)の建設)また、この建物は以前薬師堂と呼ばれていたことがあるとのこと。(蟇股に薬壷の彫刻あり)
◆安置されている仏像は、本尊・
釈迦如来(薬師如来)立像が中央で、向かって右に、薬師如来立像地蔵菩薩立像、向かって左に文殊菩薩立像、十一面観音立像、そしてこれら尊像の手前に十二神将が並び立つ。
 
文殊菩薩立像十一面観音立像釈迦如来立像(薬師如来立像)















地蔵菩薩立像
薬師如来立像十一面観音立像頭部
















文殊菩薩立像(上段左)重文、像高205.3㎝、弘仁・貞観時代。髻を大きく結い上げ、左手は胸横に上げ、右手を垂下して各々親指と中指を捻じている。ややずんぐりとした体躯で唐草文様の板光背を背にして立つ。
十一面観音立像(上段中)国宝、弘仁・貞観時代、像高196.2㎝、胸飾から下がる瓔珞に大きな輪宝を付け左手に水瓶を持ち、蓮華座に立つ姿はバランスが良い。天衣、裙には翻波式衣文が刻まれている。比較的色彩がよく残っており、ふっくらとした頬と赤い唇が印象的な像である。光背は宝相華唐草文の板光背である。
釈迦如来立像(上段右)国宝、像高234.8㎝、弘仁・貞観時代。金堂の中尊。広い肩幅、分厚い胸、特に腹から太腿にかけて薄い納衣を通して感じる量感の豊かさは貞観仏の特徴が表れている。また、腹部から太腿にかけて刻まれた衣文は、漣波式衣文(深い一本の線に続いて二本の浅い線が刻まれている、これの繰り返しの衣文)と呼ばれ、室生寺独特のものであると云われている。
 尚、お寺の標記は釈迦如来とされているが、①現在の金堂は以前薬師堂と呼ばれていた②光背は宝相華唐草文に七仏を配している③左手中指と薬指の形状④古様の薬師如来は薬壷を持たないものがあるが(奈良・薬師寺本尊、8世紀初頭)本像は造られた時代(9世紀末)からみて古様を模したものか、或は薬壷が後世に無くなったものか、のいずれかと思われる、⑤同じ堂内に十二神将(薬師如来の眷属)が安置されている。これらのことから本像は薬師如来と思われる。
地蔵菩薩立像(下段左)重文、像高160㎝、弘仁・貞観時代。端正な表情で金堂の向かって右端に立つ。右手は垂下して、左手に宝珠を持ち、胸飾・瓔珞を付けている。衣は厚手で上記3躯とは趣が異なる、時代的に多少下るか。
薬師如来立像(下段中)重文、一見、貞観仏のように見えるが、細かい切り込み螺髪、厚手の衣に太い大まかな衣文線など製作年代は地蔵菩薩と同様若干下るか。
十一面観音立像頭部(下段右)頭上の十一面はいずれもふっくらとした頬で本面と良く似た顔つきである。

弥勒堂釈迦如来坐像【弥勒堂】(重文)入母屋造、杮葺。鎌倉時代の建築なるも、後世の補正部が多い。堂内には本尊・弥勒菩薩立像(重文)、釈迦如来坐像(国宝)が安置されている。
(参考:フリ-百科事典「Wikipedia)

釈迦如来坐像、国宝、像高106.3㎝、弘仁・貞観時代。螺髪が無いので頭部が小さく感じられ、肉髻の際立ちがよくわかる。納衣を偏袒右肩に着け、ゆったりとした構えで結跏趺坐(降魔座)す。衣文は翻波式衣文が美しく流れており、前部の2箇所に渦文が鮮やかに刻まれている。弥勒堂の向かって右側の檀に安置されている。木造彩色像であるが、現在は下塗りだけが残っており、全体的に白っぽく見える。

灌頂堂(本堂)【灌頂堂(本堂)】(国宝)鎌倉時代・延慶元年(1308)の建立。入母屋造、桧皮葺き。桁行5間、梁間5間、深い軒の和様建築(但し、桟唐戸などは唐様になっている)。堂内中央の厨子に本尊・如意輪観音坐像が安置されている。(参考:フリ-百科事典「Wikipedia」)
如意輪観音坐像
如意輪観音坐像、重文、像78.7cm、藤原時代。六臂像で、持物は右手第1手は肘を曲げ頬に掌を当てている(思惟手)、第2手は如意宝珠を掌に載せている、第3手は数珠を持つ。左手第1手は膝後方に伸ばして金山の上に置く、第2手は蓮華を持ち、第3手は肘を曲げ、人差し指を立てて法輪を載せる。如意輪観音の代表的な座法である輪王坐で蓮華座に座す同観音の一般的な像容である。


五重塔 


  【五重塔】
(国宝)灌頂堂の左後方に建立されている。平安初期の建立とされているが、屋外にある五重塔では我が国最小で16.1mの塔高である。また、国内では法隆寺の塔に次いで2番目に古い塔である。初重から五重にかけて逓減率が小さく、屋根の大きさはあまり変わっていない。塔の最上部の九輪の上には通常は水煙を置くが、この塔は壷状の宝瓶が載せてある。
 1998年9月の台風7号で、塔近くの杉の大木が倒れた際、屋根を直撃大被害を受けたが、幸い心柱を含め根幹部は倒壊を免れ、1998~2000の復旧工事で元の姿に戻っている。

(参考:フリ-百科事典「Wikipedia」)


位牌堂の懸造り御影堂【奥の院】五重塔の前から奥の院に向かう長い石段が続く, 暫く行くと比較的平坦な土道になるが、朱塗りの無明橋を過ぎると延々と続く急坂の石段(400段余)がある。(伽藍全体では750段余と云われている)登りきったところに位牌堂御影堂(重文・室町時代前期)が建っている。位牌堂の舞台(懸造り)には休憩所が設けられている。但し、休憩所からは周囲の木に邪魔されて室生の里はよく見えない。御影堂は宝形造で、長い棒状の瓦の2段葺きとなっており、方3間の建物です。


この他、境内には石仏、五輪塔など多く点在しており、主なものは軍荼利明王石仏(ぐんだりみょうおう)(金堂に向かって右隅にあり)、北畠親房の墓と伝わる五輪塔(重文)(本堂に向かって左前方奥にあり)、桂昌院(五代将軍綱吉の生母)の墓(五輪塔)(本堂に向かって右側小高い壇の上4基ある五輪塔の一番左)などがある。
 また、室生寺は石楠花の寺としても有名で花期(4~6月)になると多くの女性の参拝客で賑わうようである。
 女人高野という呼び名は江戸時代から呼ばれていたようであるが、この時代から女性の参拝者は多かったのであろうか。このたび奥の院までの石段の途中で女性と出会う度に、昔も今も女性のたくましさに感じ入った次第である。

尚、金堂、灌頂堂(本堂)、弥勒堂の仏像は無論のこと、堂内の撮影は禁止です

本ペ-ジに掲載した仏像写真は、室生寺発行絵葉書「室生寺の仏像」より転載したもの。室生寺許可済。


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