洗合城跡(天倫寺)

                           















永禄五年(1562)毛利元就は、富田城攻略のための前線基地として宍道湖沿いの丘陵に築かれた山城である。この地を選んだ理由は前面が宍道湖で見通しがよくきき、兵員、物資に輸送に便利である、中海と宍道湖を結ぶ水道を押さえる事ができる、白鹿城(尼子氏の筆頭支城)攻略に有利な地であった、などが考えられる。
(参考:当日の資料)
尚、城は永禄九年(1566)尼子氏が敗れ、その役目を終了、廃城となった。

城の規模は,『懐橘談』(松江藩儒・黒沢石斉編纂、江戸時代の地誌)で「山の長さ
二十余町、其外谷々多し、山の頂平らかなる所に乾堀(空堀)を堀り茂木を構え60間四面に本陣を立てたり、諸士四方谷々に帷幕(いばく・陣営のこと)を張り、外に町屋を立てて商売を通ず」とある、とのこと。記述に基づき現在の単位に直すと、山の長さ2.2km、本陣の広さ11.7K㎡となり、ほぼ広島・マツダスタジアムのグランド面積12.7K㎡に匹敵する非常に大きい規模である。また、商人とのやりとりも行われていたらしい。

現在、城跡は大部分が住宅地と天倫寺の境内となっており、残念乍ら遺構は見当たらず、跡地東端に建立されている天倫寺を訪れた。


         臨済宗 天倫寺















天倫寺はもと瑞応寺と称し、松江藩主堀尾吉晴(堀尾家初代)が富田にあった寺院を移して創建した(1611)と伝えられている。次いで入府した京極忠高(京極家初代)は忠晴(堀尾家3代)の法号を用いて寺号を鏡湖山円成寺と改め、瑞応寺を意宇郡乃木村に移し、洗合には玄要山泰雲寺を建立。京極氏に代わって入府した松平直政が寺号を神護山天倫寺と改める。
(参考:天倫寺歴史・史料)
洗合城の遺構は見当たらないいが、かっての郭跡の
ようなところに天倫寺の伽藍は建立されている。
鐘楼には応永年間に朝鮮に渡った多伎町の僧が持ち
帰って慈眼寺(出雲市)伝えたとされる梵鐘(高麗国
東京内廻真寺・1011年鋳造銘あり。国重文)が架か
っている。中世に於ける朝鮮半島と島根との文化交流
を伝えるものとして貴重なもの。
(参考:天倫寺史料)
境内の四阿に安置されている石造地蔵菩薩半跏像(
明治九年の銘あり)なかなかバランスの良い像で、
蓮華座に坐し、左足を踏下げた半跏踏下像である。
境内の東端住宅街越しに松江城の眺望。
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